何度目だろうか?
僕は、僕の抱えている問題や、その答え、あるいは考えのプロセスを言語化しようとして、あきらめて…いや飽きてしまう。
腹八分目って言葉がある。要は余裕残しときなさいってことなんだと思うのだけど、本気じゃなくては面白くないことも多い。
きっとやりきって振り返った時の、後悔が腹八分目と言わせ、やらずに振り返った時の後悔が本気じゃなくては面白くないと言わせているのだとも思う。
でも、僕が飽きてしまうのはやりきった感もなくお腹いっぱいになってる感じだ。
若い頃、いや子供の頃という方が正しいかな?歌詞のある音楽が好きだった。歌詞の意味を考えて、想像して、歌のストーリーを、その行間を、背景を考えた。そしてその意味や世界が理解できた時、鳥肌すら立ち、感動に浸ることができた。
でもある時、当時好きだった小室哲哉の作曲した曲を前提知識無しに、最初の音を聴いただけで見抜いてしまってからは、なんか冷めた。たぶん、同じような頃に意味に疲れてしまったのだと思う。JAZZとかインストロメンタルにシフトしていった。
そこからかれこれ30年。時々、歌詞のある歌に心を掴まれる。
すると途端に、意味の洪水に見舞われる。僕の知らない誰かの、僕の知らない誰かに対する愛や、恋の言葉。僕には関係ないことなのに、勝手に共感して、一緒に辛くなったり、ハッピーになったり…なんなら、歌詞の主人公は何を食べてるんだろう?とか、ちゃんと眠れてるのかな?とか、本来ならどうでも良いことまで考えてしまって、異常な程、解像度が上がってしまって意味の洪水に僕は沈んでいくのだ。
すると疲れる。
命までは取られないし、身体は痛みもしないけど、精神は確実に消耗する。
そして、ブレーキを踏んでしまう。
なんかさ、とことんまで解像度あげて辿り着く世界には、そこにまた別の世界というか、個別の事情と言うか、ルールごあって、でも、それを読み解いていくと、俯瞰したときに初めてわかる共通点みたいなものがありそうで…
そう感じてしまうと、もう飽きちゃうんだ。
で、要はこれを書くことに飽き始めているのだけど(笑)
なんか思ったの。
本気になって楽しんだ方が、コスパは良いのではないか?と。だからとは言わないけど、効率だとか、成果だとかは抜きにして、楽しむことに本気になるのが賢いのではないだろうか?
なんかとってつけた結論じみたこと書いてみたけど、ごめんね、たぶん飽きただけだ。