幸福のヒント?

僕による僕が幸福になるための、ヒント集にするつもりだけど、だいたい愚痴、ときどき妄想、たまに詩っぽいの

思いつき

五十音の組み合わせについて考えた。

人間の脳が、日本語が許容できる?意識に捉えられる?1つの単語に対する音節として?母音数として?4つまでくらいが限界なのではないだろうか?

つまり、50の4乗、6250000の組み合わせが限界で、実際の単語数としてはもっと少ないと思うけど、日常的に取り扱えるのは、3〜4音なのではないかと思う。だから同じ音で別の意味を持つ単語があるんだろう。それは、長母音の日本語ならではの現象なのかもしれないけど、でもきっと人間の器質的な限界として、音節なり母音の数なりでの限界は3〜4音なのだと思う。

そこに更に、音と意味の連携、コンビネーション数の意味があるけど、それにも限界が確かにあるんだと思う。単語の組み合わせなんかも加わって僕らの扱う意味の伝達ツールの限界はほぼ世界をすべて捉えられていると思いがちだ。この音と意味の連携や単語の組み合わせ、なんなら表情やら音の高低なんかも含めて考えると、僕らに必要な、意味のあることは言語に置き換えられるような気がする。でも実際は、言語の限界が、同時に僕らの扱える世界の限界であり、言外にある、確かにそこにあるが認知として捉えられない現象を捨象する事に他ならない。

論理的に正しいのに、その通りにならない努力のほとんどは、この言外の存在や、人それぞれの認知の違いから生まれているのだと思う。

何を言いたいのか分からなくなってきてるけど(笑)

僕は、少なくとも僕は、僕の持つセンサーで捉える世界を更に僕の意味体系で濾して認知したものを、伝わると願いながら発する言葉で語っている。

そう考えると、この世界は如何に朧げで、確からしさに対しての憧れがエンハンスされる仕組みなのだろうか?

なんてことを考えたのだ。

はぁ、宝くじ当たらないかなぁ?

なんか、わかりかけてるのに、いやわかって無いって僕の中の真面目なヤツが叫んでる。でも、所詮、そいつも僕で、金の力で分かり易い快楽を与えてやれば黙ると思うんだよね。

それを望んでいるかと言うと…微妙ではあるけど、あたったらあたったで、結局悩むんだろうけどね(笑)

でも、あたったら僕は幸せだと勘違いはできる。それだけは確かだ。