幸福のヒント?

僕による僕が幸福になるための、ヒント集にするつもりだけど、だいたい愚痴、ときどき妄想、たまに詩っぽいの

ポジショントーク

要するに、立場や所持しているポートフォリオに基づいた見解ってヤツなんだけど、僕らはいつだってポジショントークしてる。

それはよく言われるシルバー民主主義だとか、世代間闘争を表現する言葉にも現れているけど、僕らは、一個人を主語として語っているようで、自分の属性を無意識に代表して語っている。

それは社会的、会社的な立場から家族や友人、恋人、何かしら立場があれば少なからず言えることだと思う。

それが良いとか悪いとかの話ではなくて、そういう事実を把握してないと、自分さえ見誤ることになると思う。

未だに覚えている小学校の道徳の教科書に載ってた話。

ライオンの檻に投げ込まれた仔犬。それをした人間はライオンが仔犬を喰らう残虐なシーンを期待していた。ただライオンは仔犬を喰らうこと無く、それに焦れた人間がライオンの食欲を刺激する為に肉塊を投げ込んだ。するとライオンは肉塊には食らいつき、一通り食べた後に仔犬に向かって余った肉塊を投げ出した。

ライオンは残虐なシーン期待されていた。だけど、ライオンはその期待に忖度すること無く、生物としてのみ存在していた。そこに、何か道徳的な善良な意図は無く、単に毛むくじゃらな食べる事のできる対象を喰らう程は空腹ではなく、食べるために加工された肉塊には手を付けた。

それが、あるべき生き物としての姿でしか無いし、その行動を誰かに、本来なら第三者に認めてもらう必要も無い。ただ、人間は社会で生きてゆく限りにおいて、自分の役割を演じなくてはならない。

あ〜なるほど、これが民主主義の限界だし、業なのだな。

いや、認知の限界か。

砂漠の中から針を見つけるのは困難だができなくは無い。だけど、砂漠の中から特定の砂粒を見つけるのは不可能だ。

違いがなければ、存在しないわけではないけど、存在を認知することができない。

思考は抽象化し、究極的に抽象化すると、認知されなくなる。どこまでが、個であり全であるのか?

世界は僕であり、僕は世界であるのだけど、世界ではない。

この矛盾を受け入れる。