ルールというものは、誰か1人もしくは複数人が思いつき、それを汎用性のある規則、法則、理屈として、賛同を求め、うけいれられただけの存在ではないか?
僕はもしかしたら、次の瞬間に宇宙に投げ出され、僕という意識を保てずに、世界に還る可能性を誰が否定できようか?
ならば、僕は、僕だと思っている何かが望む世界を求めることに、なんの躊躇いや、罪悪感を抱く理屈、理由があるのか?
そもそも、宇宙なんてあるのか?
デカルトが至った、コギト・エルゴ・スムって知覚、認知、それを疑ったら崩壊する、そもそも、危うい理屈ではないのか?
いや、それ以上に正しさとか、正確さとか、倫理的な良し悪しとか、そんなものは、そもそも、僕らの思い込みでしか無くて、現在的価値観の中では、いや、言葉という曖昧かつ便利な共通感覚と思われているものをベースに紡ぎ出されたあらゆるものが価値も、意味もなく、ただただそこにあるだけのものではないか?
なぜ価値というものがうまれたのだろう?
なぜ、僕らはそれぞれの幸せだけを求めて生きていけないのだらう?
良いじゃん、別にさ。
オナニーしてりゃ気持ち良いし、何か食べれば満たされるし、イーロン・マスクみたいに金持ちじゃなくても気持ち良いことたくさんあるじゃん。
それでも、そうだとしても僕らは何者かになりたくて、その何者かの在り方って言う牢獄でもあり、規範でもある何かしら、他者に理解される事を望む理屈に拘泥していて、そこから僕らが自由になったら、社会は崩壊するけど、最大限の幸福を得られるのではないか?
あぁなるほど、これが業か。
僕らは絶対的な幸福を得るためには、悟りというドグマに陥らねばならない。
ドグマと言う概念、永遠不変、普遍の価値観。そんなものを僕らは求めているけど、それはさ、論理的に言って、意味のない、いや、ギリギリの意味を残した、限りなく無意味な価値観なんだろうな。
ならさ、僕は、僕の身体や歴史、経験が示す価値観に沿って最良の選択肢を選べば良いのではないか思うのだけど、それってつまりは、無敵の人の理論と変わらない。
ある意味で僕は無敵だ。
薬やら酒やら知覚を歪める物質で、歪んだ知覚でしか到達し得ない境地ではなく、知覚そのものを変更して至る境地、僕らはそんなものを求めているのかも知れないね。
だとしてもだ、そこに至れない間は、僕は自分の外にある理屈で世界を捉えるしか無くて、その結果、振り返れば無駄なことをしていたと思うこともあるのだろうけど、要はそれを楽しめるかどうかが人生の豊かさなんではないかな?
だとしたら、合理的に僕が幸せになるとしたら、他人が実際どう思うかよりも、自分が他人からどう思われていると思うかが大事で、それは実は僕の捉え方次第でどうにでもなることなんではないか?
ん〜よくわからない(笑)
いや、わかっているけど、信じる勇気が無い。
信じたとして、それが正しいかなんてわからないし、わかったとして、それを採用するかは、その時々なんだろうね。
やりたいように生きるしか、今の僕にはできないし、きっと、今後の僕もそうなんだろうね。