幸福のヒント?

僕による僕が幸福になるための、ヒント集にするつもりだけど、だいたい愚痴、ときどき妄想、たまに詩っぽいの

結果論

哲学的な話になる。

時間があるか無いか。

今、僕が生きていると言うか、存在している世界は時間と言う手に触れることも、見ることも、匂いも、聴くこともできない軸を前提に成り立っている。

 

僕らが時間を意識できるのは、恐らくは、五感における変化の順序の問題だ。

酒を飲めば、顔が赤くなる。顔が赤くなったから酒を飲んだと言う事実が現れるのではない。

因果ということもあるのだけれど、その方向性については、五感で感じる、感覚を通じて得られる世界とは違い感覚の判断によって得られる、第二の、総合的な感覚、仮想的なdirectionを仮想の感覚として得ていると思うのだ。

でもね、ある時点の事実を三次元的に捉えて事実を把握するまでならきっとなんの矛盾も無い。でも、そこから第三の要素、所謂、方向性、指向性、上下右左前後の3directionの世界から、知覚できない第4のdirectionを持つことで、第5のdirection、価値判断と言うベクトルが生まれている。昨今、一部で話題になる引寄の法則が示す様に、知覚こそが世界で、その世界の根拠、言い切るには勇気がいるのだけど、要するに因果の理屈って言うのは、現実世界を説明する属性やら、個体を識別する識別の、概念を措定する理屈、つまり意味、価値、それが何かの目的の為に存在していると言う、ある種の価値化、ベクトル化、軸に習って並べる性向、それに拠る判断でしかないと思う。

今さ、こうして何時間かかけて書いているこの文章だって、僕は、僕の考えていることを、書いているのは、誰かに伝わることを期待しているにも関わらず、どこかに伝わらないだろうなって諦めも持ちつつ書いている。

それは、免許更新のときにされる視力の検査と同じように、見えていることの感覚的な意味と、頭の中で判断される見えていることの差と言うか25%の割合で、見えていないけど当たる、見えているけど外れるって言うオプションから正解か一つと考えたら当たる正解と同じ様に、確率論的に尤もらしい世界の理屈と同じようななそんな、担保としては怪しい理屈をさ、僕らは信奉しているのではないかと思ったり、思わなかったり。

 

なんかね。僕自身が何を大事にしているかって言うのと、僕以外の誰かが僕の生き方、やり方、やった事に対して納得できる理屈てもって僕のことを評価することを受け入れないと成り立たない価値観。つまりはさ、理屈と行動が一致するって言う、奇跡のような理屈、でも、どっかで無駄なって思うような、そんな価値観に習わないと僕らは存在さえし得ないのだと思う。

 

でもさ、それを受け入れてしまうと、多分、人は消える。

 

ダーウィンの進化論は、エビデンスの積み上げから得られた理屈で、でもさ、それって、僕らが得れれている知識の総合知と言うか、僕らのドグマ、そう有りたいと願う気持とかの有りたい価値観と現実的な世界の、感覚的な世界の在り方、最小公数的な世界に対する評価に則った世界に対する僕らの評価の総合に他ならない。

 

人という、曖昧な概念に対しての、総合。それはさ、ある意味において、僕ら、僕と言う言葉に男性性があるとしても、それを否定して、僕と言う言葉に対して僕自身の個別性を無視して言う、理屈で無いと思っていつつ深く考えてたらさきっと理解される、共感されうるのは僕の属性でしかなくて、そこになんの意味があるのか?

 

make no difference

 

違いが無ければ存在さえない世界と、違いの中に価値を見出す世界。

 

その差額が、日本と西洋的価値観との差なんだと思う。

 

とかなんとか言って、賢しらぶった言葉をならペているものの、要するに僕は、こんな僕を愛してくれる女を求めているのだ。

 

男じゃダメなんだよね。

 

もうさ。満足に勃ちもしないのだけど、でもさ、それでも僕はまだ、濡れる女を欲しているのだ。

 

どうしょうもないよね(笑)