池袋の事件、アレ以来、インターネッツの一部界隈では、上級国民説がお盛んらしい。
いわゆる特権階級ってヤツに対する批判なんだろうが、それって、「ただし、イケメンに限る」と何が違うのか?
ゴーンさんの保釈金を、平然と報道する中、老人の過失を執拗に追求する国民を煽る報道。衆愚にも程がある。
かつて、週刊誌の過剰な報道の正当化に、知る権利を標榜していたかと思うが、極論で言ってしまえば、それって国民的アイドルとか言われる子達の、本人不同意のヌード写真を公開することさえ正当化できちゃうとんでも理論だ。
だがしかし、あながちこう言った報道なんかが、的外れで無いと思わせてしまう現代社会の闇と言うか、実相があるとも思える。
科学の進歩によって、無知蒙昧な、再現性の低い主観的な伝統やら、規則やらが衰退してゆくサイクルは早くなったと思う。でも、反面で、そう言った、怪しげな理屈だけでなく、あらゆる推論に対する支援理論も進歩し、犯罪者の9割が犯罪行為を犯す24時間以内に炭水化物を摂取しているから、炭水化物は危険な成分である、みたいなナンセンスな理屈をもっともらしくする技術も進歩し、論理的に正しくとも、少し考えればおかしい理屈が溢れている。
「個人の感想であり、効果効能を示すものではありません」の一言さえ添えれば、米の研ぎ汁さえ、何かしらの薬効がありげな商品に早変わりする。
大分話が逸れたが、いわゆる上級国民説。僕はそれを認めない。認めたらバカらしくて、自分の生きている世界がそんな世界だと思った瞬間に、色々諦めなきゃいけなくなる。
僕は、かねてから思っているのだが、過去に起きたことは運命であり、責任は自分にあるものの、全てを負う必要は無いと。
だが、未来に起きることは、僕ら一人ひとりに責任があり、かつ、自由であるものだ、と。
未来が過去に変わる瞬間、今と言う瞬間は、僕らの容喙し得ない過去へと変わる。
だからこそ、僕らの、今には価値もあり、意味もある。
過去の軛から抜けられないのであれば、僕らは並列コンピュータ上のシミュレーションにも劣る。
上級国民と言うものがあったとして、いやさ、多分あるんだろうけど、上級国民である人を批判することにどれ程の意味がある?
むしろ、上級国民でない自分を、顧みて、努力する方が建設的ではなかろうか?
上級国民を羨望の眼差しで見つめるしか無い、そんな受け身の社会になりつつあることの方が、上級国民と言ういるんだかいないんだかわからないような存在にヤキモキすることで、自身のアイデンティティを措定するしかできないような、愚かさ、愚直さが蔓延する方が、僕は恐ろしいと思うのだ。