“自分らしく生きろ”と言われるほど、僕らは転生したくなる
「自分らしく生きよう」
この言葉は、一見すると優しい。
他人に縛られず、自分の人生を生きる。
自分の可能性を信じる。
好きなことを見つける。
強みを活かす。
自分だけの物語を歩く。
どれも悪い言葉ではない。
むしろ、たぶん正しい。
でも最近、この「自分らしく生きよう」という言葉が、少し怖くなってきた。
なぜならそれは、裏返すとこう聞こえるからだ。
「まだあなたは、本当の自分を生きられていない」
「まだあなたは、自分の可能性を使い切れていない」
「まだあなたは、自己実現できていない」
つまり、自己実現とは自由の言葉であると同時に、完成された自分というイデアへの服従でもある。
自分はもっと何者かになれるはずだ。
自分にはまだ眠っている才能があるはずだ。
自分の人生には、もっと意味があるはずだ。
そう思うこと自体は悪くない。
でも、その言葉が強くなりすぎると、人は自分を生きるのではなく、自分を運用し始める。
自分の傷をコンテンツにする。
自分の個性をブランドにする。
自分の経験を資産にする。
自分の弱さにまで意味を求める。
休むことにも意味が必要になる。
趣味にも成長が必要になる。
恋愛にも学びが必要になる。
苦しみにも物語が必要になる。
そうなると、もはや自分は「生きている主体」ではなく、「最大化すべき資源」になってしまう。
ここで、ふと思う。
だから僕らは、転生したくなるのではないか。
異世界転生。
悪役令嬢。
追放ざまぁ。
リセマラ。
親ガチャ。
これらは、単なる現実逃避ではないと思う。
もっと正確に言えば、現代人は「努力したくない」のではない。
「努力が意味を持つ世界に行きたい」のだ。
この世界では、初期条件が重すぎる。
親は選べない。
家は選べない。
生まれる国も、時代も、身体も、気質も、最初に与えられる愛情も、最初に刻まれる傷も選べない。
にもかかわらず、社会は言う。
「あなたの人生は、あなたの選択の結果です」
ここに大きな矛盾がある。
初期条件は選べない。
でも、結果責任は個人に返ってくる。
だから「親ガチャ」という言葉が生まれたのだと思う。
もちろん、人生はすべて親だけで決まるわけではない。
親ガチャという言葉で、すべてを決定論にしてしまうのは危険だ。
でも、それでも親子関係は、すべての人にとって最初に与えられる、選択権のない関係である。
その意味では、たしかにガチャに近い。
どんな親のもとに生まれるか。
どんな家に生まれるか。
どんな経済状況に生まれるか。
どんな愛情を受けるか。
どんな傷を受けるか。
それらは、本人の努力以前に与えられる。
でも同時に、親は単なる初期ステータスでもない。
親は、条件である前に、関係だからだ。
ここで思い出すのが、美輪明宏の『ヨイトマケの唄』だ。
あの歌が描いているのは、ただの「母は偉大だ」という美談ではない。
むしろ痛いのは、子どもが一度、母を恥じてしまうところにある。
泥だらけになって働く母。
それをからかう世間。
その世間の目を通して、母を恥ずかしいものとして見てしまう子ども。
ここには、人間の残酷な構造がある。
母そのものが恥ずかしかったのではない。
世間が母をどう見るか。
そして、その母を持つ自分がどう見られるか。
その関係性の中で、母は「恥」になってしまう。
でも後になって、価値は反転する。
世間から見れば、泥だらけの労働だったもの。
子どもの頃の自分には、恥ずかしく見えてしまったもの。
それこそが、自分を食べさせ、自分を学校へ行かせ、自分をこの世界に立たせていたものだったと気づく。
つまり『ヨイトマケの唄』は、労働の歌であり、母の歌であり、同時に「価値体系が反転する歌」でもある。
子どもの頃は、世間の目が絶対だった。
母との関係は、その世間の目によって恥に変えられた。
でも大人になってからは、母との関係の方が絶対になる。
そして、かつて絶対に見えていた世間の目の方が、薄っぺらく、恥ずかしいものに変わる。
この反転は、とても人間的だと思う。
人間は、関係性の中でしか存在できない。
でも、その関係性は、本人にとって絶対として襲ってくる。
母にどう見られたか。
父にどう扱われたか。
誰に笑われたか。
誰に愛されたか。
誰に認められたかったか。
誰の前では、何者でもなくいられたか。
それらはすべて、相対的な関係の中で起きている。
でも、その人の内側では絶対になる。
外から見れば、貧しい親、弱い親、頼りない親、病んだ親、迷惑な親、失敗した親に見えるかもしれない。
でも、その親との関係の中でしか生まれなかった自分がいる。
もちろん、それは親を美化しろという話ではない。
暴力や支配や放棄まで、愛という言葉で包む必要はない。
ただ、人間にとって親子関係は、単なるスペック表では処理できない。
世間の価値体系から見れば「失敗」に見えるものが、本人の内側では一生ものの支えになっていることがある。
逆に、世間から見れば「恵まれた家庭」に見えるものが、本人の内側では深い呪いになっていることもある。
だから親子関係は厄介なのだ。
相対的に見れば、条件の一つにすぎない。
でも個人にとっては、最初に世界を形づくる絶対に近い。
そして、その絶対ですら、時間が経ち、次元が変わると相対化される。
子どもの頃に恥だと思ったものが、大人になって誇りになる。
子どもの頃に誇りだと思ったものが、大人になって呪いだったとわかる。
絶対だった世間の目が崩れ、恥だった母の姿が、自分の根になる。
この反転を描いているから、『ヨイトマケの唄』は強い。
あれは、「母は尊い」という単純な歌ではない。
人間は、世間の価値体系によって、自分を支えていたものさえ恥じてしまう。
そして後になって、その恥じてしまったものこそが、自分の存在を支えていたのだと知る。
そこに、取り返しのつかなさがある。
そして、だからこそ救いもある。
価値は固定されていない。
絶対に見えたものも、次元が変われば相対化される。
恥だったものが、誇りになることがある。
不幸に見えたものの中に、自分を生かしていた関係が見つかることがある。
だから人間は、単純に「親ガチャ成功」「親ガチャ失敗」だけでは語れない。
人生の初期条件は、たしかに選べない。
でも、その初期条件の意味は、後から変わることがある。
変えられない過去が、別の価値体系の中で読み替えられることがある。
そして、たぶん僕らが異世界転生やリセマラに惹かれるのも、そこなのだ。
本当は、過去を消したいだけではない。
初期条件を引き直したいだけでもない。
自分を苦しめてきた価値体系そのものを、別の場所から見直したいのだ。
この世界では恥だったものが、別の世界では力になる。
この世界では無価値だったものが、別の共同体では必要とされる。
この世界では負け組とされた人が、別の評価軸では主人公になる。
異世界転生とは、価値体系の反転を夢見る物語なのだと思う。
その意味で、『ヨイトマケの唄』と異世界転生は、遠いようで近い。
片方は、現実の中で価値が反転する歌。
もう片方は、世界を変えることで価値を反転させる物語。
どちらにもあるのは、同じ願いだ。
今、自分を裁いているこの価値体系だけが、世界のすべてではありませんように。
ここで、「自分らしさ」の話に戻る。
自分らしさとは、本当に自分の内側にある本質なのだろうか。
たぶん違う。
自分らしさとは、他人から見て一貫しているように見える自分の型であり、過去の自分の履歴であり、社会が読み取りやすくするための圧縮形式でもある。
「男らしさ」
「女らしさ」
「大人らしさ」
「親らしさ」
「社会人らしさ」
これらは、現実の人間の中にある本質というより、社会が共有しているイデアに近い。
現実の人間が先にいて、そこから「らしさ」が生まれるのではない。
むしろ、「らしさ」という理想像が先にあり、現実の人間がそこに照合される。
男なのに泣くのか。
女なのにそんな言い方をするのか。
母親なのに我慢できないのか。
大人なのに普通こうしないのか。
そうやって、現実の人間は「あるべき姿」と比較される。
そして恐ろしいことに、「自分らしさ」もまた同じ構造を持っている。
「自分らしく生きたい」と言った瞬間、僕らは「自分」というイデアに、現実の自分を合わせにいくことになる。
本当は怒っているのに、「自分らしくない」と抑える。
本当は助けてほしいのに、「自分は一人で考えるタイプだから」と飲み込む。
本当はくだらないことをしたいのに、「自分はこういうキャラじゃない」と止める。
これは、自分らしさによる自己支配だ。
だから、自分探しという言葉も少し怪しい。
自分とは、探さなければならないほど複雑で難解なものなのだろうか。
むしろ、自分はいつもすでにここにいる。
ただ、近すぎて見えない。
当たり前すぎて価値だと思えない。
他人から与えられた「らしさ」や「成功」や「完成形」と比較するから、自分が不在に見えてしまう。
『オズの魔法使い』のように。
脳みそが欲しいと思っていた案山子は、すでに考えていた。
心が欲しいと思っていたブリキ男は、すでに感じていた。
勇気が欲しいと思っていたライオンは、すでに怖がりながら進んでいた。
彼らが得たのは、能力そのものではない。
自分がすでにそれを持っていたと認めるための物語だった。
本来、自分探しとは、そういう気づきなのだと思う。
探していたものは、最初から自分の中にあった。
だから、もう証明しなくていい。
でも現代社会は、そこで終わらせてくれない。
「それがあなたの強みです」
「それを活かしましょう」
「それを仕事にしましょう」
「それを発信しましょう」
「それを市場価値にしましょう」
こうして、オズ的な気づきは、自己実現の燃料に変えられてしまう。
本来は帰還の物語だったものが、終わらない成長物語にされる。
「自分はすでにある」という安心が、
「なら、その自分を最大限活用しろ」という命令に変わる。
ここに、自己実現の怖さがある。
そして、その裏側に、転生願望がある。
自己実現は言う。
「この人生を攻略しろ」
「この自分を最大化しろ」
「この世界で、自分の可能性を証明しろ」
リセマラや異世界転生は、それに対してこう返す。
「そもそも、この人生の初期配布がおかしい」
「この世界の評価軸では、自分の価値が通じない」
「努力するなら、努力が報われる世界で始めたい」
これが、現代の閉塞感とぴったり一致している。
僕らは、世界が不公平だと知っている。
家庭環境の差も、資産の差も、学歴の差も、容姿の差も、健康の差も、情報格差も、全部見えている。
SNSを開けば、他人の成功が見える。
他人の幸福が見える。
他人の初期条件の良さが見える。
でも、見えるからといって変えられるわけではない。
相対化だけはできる。
でも脱出はできない。
これが現代の閉塞感なのだと思う。
だから、転生ものが流行る。
弱かったものが強くなる。
無価値だった知識が武器になる。
追放された人が別の共同体で必要とされる。
悪役として配置された人が、自分の脚本を書き換える。
この世界では評価されなかった自分が、別の価値体系では意味を持つ。
それは、ただの夢物語ではない。
「今いる世界の評価軸が絶対ではない」と証明してくれる物語なのだ。
現実では、会社、家庭、学校、親子関係、階層、世間の目が絶対に見える。
でも異世界では、その絶対が崩れる。
だから僕らは、異世界に惹かれる。
本当は、死にたいのではない。
消えたいのでもない。
この初期条件のまま続けるのがしんどいのだ。
この価値体系の中だけで、自分を裁かれ続けるのが苦しいのだ。
だから、世界ごと変えたくなる。
自己実現の時代に、転生ものが流行るのは偶然ではない。
それは、同じ時代の表と裏だ。
自己実現は、「この人生を最大化しろ」と迫る。
転生願望は、「そもそもこの人生の初期条件からしておかしい」と訴える。
そして、たぶん僕らに本当に必要なのは、そのどちらでもない。
自己を実現し続けることでも、人生をリセマラすることでもない。
自分を、未完成のまま許すこと。
自分の痛みを、他人との比較で無効化しないこと。
でも同時に、自分の苦しみだけを世界のすべてにしないこと。
痛みは絶対として受け止める。
でも、世界認識は相対化しておく。
それくらいしか、人間にはできないのかもしれない。
自分は、探して見つけるものではない。
実現して完成させるものでもない。
ましてや、市場に提出して証明するものでもない。
自分とは、関係性の中で傷つき、関係性の中で支えられ、何度も相対化されながら、それでもどうしようもなくここに残ってしまうものだ。
だから、もし「自分らしく生きる」という言葉をまだ使うなら、こう言い換えたい。
自分らしく生きるとは、完成された自分になることではない。
過去の自分らしさに、今の自分を閉じ込めないことだ。
そして、自己実現とは違う場所で、こう言いたい。
持っていても、使わなくていい。
できても、やらなくていい。
才能があっても、換金しなくていい。
物語があっても、語らなくていい。
自分は、実現されるための素材ではない。
ただ、生きている主体である。
そして願わくば。
今、自分を裁いているこの価値体系だけが、世界のすべてではありませんように。