幸福のヒント?

僕による僕が幸福になるための、ヒント集にするつもりだけど、だいたい愚痴、ときどき妄想、たまに詩っぽいの

無駄の効能

タイパやらコスパ。支払う対価に対してゲイン出来る成果を量的に比較して産まれた言葉だと思うの。

 

成果というものが、物質的、価値観的に量的に把握できてこそ生まれる考え方。

 

僕ら人間は基本的に動物として、生命として、死にたくない。でも、社会性の強い、社会における生き物として、あるいは、形而上学的な存在として死にたくなる時がある。

 

あるのかどうかわからないけど、僕らに魂とか言う、なんとなく信じている非科学的な、いや、違うかな?ある意味で科学に支配されていない領域にあると期待している存在と、その理屈。

 

僕らはさ、きっとその間に生きている。

 

お酒飲んで、ベロンベロンになりながら、僕は人生の在り方と同時に目の前の欲求を如何に満たすかを考える。

 

幸いにも?僕は今のところ、世間一般的に稼ぎの面では、平均的な、中央値よりは若干上の、収入をえている。

 

だからなんだ?ってとこではあるのだけれど、要するに、自分自身で、自分の境遇を評価できていないんだよね。

 

そこが問題の最たるところではあるのだけれど、要するに、僕が僕を語る時、いわゆる世間一般的な価値スケールに照らし合わせて、自分自身で評価し、語るほかなくて、自分の価値観なんてものは二の次にされているし、僕は僕自身を評価することができずにいる事なんだと思う。

 

それは、ある意味で当然の事だし、僕らは評価者であり、被評価者である二面性を受け入れるにはあまりにも社会的習慣が追いついていない。

 

ん〜自分でも言いたいことがわからない(笑)

 

所詮、言葉は世界を雑に切り取って、最小公約数に落とし込もうとする、人間の努力でしかなくて、言葉が全てを表す事はない。だが、いわゆる形而上学ってのは、そんな不完全な言葉がベースにあって、不完全ながらもそれなりに納得できる理屈を用意してくれるから、宗教的なものと同じように、限りなく確信に近い理屈を、そこに見てしまうのだろうだと思う。

 

僕らは、いや、僕はね、死にたい。

なぜなら、結果としては死に至るのだから、死ぬ事で、生きることが完結するのなら、もう、終わりにしたいのだと思う。

 

だけれどもだよ、僕はね、僕が生きている、生きてきた、それを望むことを、動物としての僕が否定する。

 

て、タイトルだよ。

 

価値のスケールが変われば、なんだって意味や価値が生まれる。だとしたらだよ、僕らは、明確な価値観を持てないのなら、ある意味で、コンコルド効果かもだけれど、自分自身が生きてきた、その経験を評価して、受け入れるのなら、それ自体が価値観なのではないか?

 

それならさ、たぶん科学は無用な学問だし、自分自身が正しいと思えることの価値なんて、ドグマに他ならない。

 

なら、結局のところさ僕らはきっと、誰かから無駄だと批判されたとしても、そう生きるしか無いのだと、思う。

 

まぁ、とは言えなんだけどね(笑)