僕は1年365日1日24時間1時間60分1分60秒、僕である。
僕が僕でない時。そんな時間はあるのだろうか?
そもそも、僕とはなんだ?
いろんな定義はできると思う。
でも、僕の僕性と言うか、何を僕とするかは、大抵は、僕にしか問題とはなり得ず、極めて個人的な問題であって、僕以外の誰からも興味すら持たれない謎と言うか、僕以外には基本的には意味すらない問いだと思う。
でも、そんな多くの僕。あるいは私。人称の種類に依らず、いわゆる我。自己自身を対象とするとき、僕らは初めて、自己自身を相対的な世界に投げ込み、評価する。
ここで問題とすべきは、投げ込む相対的な世界も、あくまでその個人の認知している世界であり、その世界に対する評価も、類似点は多くあるものの、決して一つとして同じものではないはずなのだ。
科学を否定するつもりはない。だけれども、僕らは決して重なることのない幻影って言ってしまうとポエミーだけれども、もっともらしい最大公約数をあたかも絶対普遍の科学的真実かのように扱い、自分と言う範囲を決めていて…
なんかさ、歳取る度に思うのよね。つまりはさ解像度の問題なんだと思う。
いろんな知覚の経験から、僕は作られていて、今も作られている。だから、今の僕は何が正しいとか、正義であるとかが分からなくなっていて、そのくせ自分が、気持ち良いことはわかっている。
エッチな事は、昔はさ、若い頃は、相手は誰でも良かったのがさ、そんな欲求は今やそこまで強く無いし、身体も正直で誰にでもは反応しなくなったよね。
そしてそれが僕の現実であり世界になっている。
そして、その世界の僕と、サルみたいな性欲に、食欲に支配されていた僕が同じ、同一性のある人間であると、今の僕は認めたくは無いのだけれども、でも事実として僕なんだよね。
ソロスの言う再帰性の話に近いかもだけれども、人間というのは、今の在り方を過去の在り方との間にどうにか折り合いをつけようとして構築されるものなんではないかな?