昨日で、今年の勤務は終了。
まぁ厳密には、朝方ちょっとは仕事するのだけれど、かつてのようにガチガチに勤務したり、記録上は休みなのに働いたりしていないし、働いた分はお金が出るし…いや、お金の出る出ないは関係無いのかな?条件で稼働ってレベルの仕事だから?いや、違うな、なんか、個人的に期待を込めて仕事できるから、気持ち的にも問題なく働けるんだろうな。
時々想う。人が完全に幸せだったら、満たされた状態だったら、僕らはその先を望むのだろうか?
科学に毒されていると言ってしまえば、それまでなのだけれども、僕らが高校生までに学ぶ科学の知識では、どうやら幸福を感じるのはオキシトシンとか言うホルモンらしいではないか。
ならさ、そのオキシトシンとやらを抽出して、それを受容するレセプターに注入したら、それで人は幸せになれるのではないだろうか?
だからアメリカではオピオイドが流行り、科学がもたらした人間像と歴史的、文化的、あるいは宗教的人間像との乖離に、観察者であり、評価者でもある、事実を真実に変換してしまう人間が、人間性って言う概念が揺らいでいる。
スケールを長く取って、1000年、10000万年ってレベルで言えば、きっと今の世代が騒いでいるSDGsとか地球温暖化の問題、謂れのない侵略に晒されているウクライナの人々さえ、だから何?って存在でしかなくなる。ましてや、僕の老いらくの恋なんて、人類の認識している最小単位以下の存在でしかないだろう。
でもさ、最小単位以下の価値しかない僕の恋心や他人を慮る気持ちはさ、僕の人生って言うかなりローカルな世界では何よりも大切で、何よりも尊いのだと思う。
これが、この感覚こそが現代の病理であり、人類の希望なのだと思う。
人間は、どうしたって、社会的な動物で、それは猿山のボスが総取りしているように見えて実はそうでもないみたいな、マスとローカルとのバランスが個人の中にのみ存在していて、学術的な、ある種の数字こそ全てみたいな世界と、僕らが生きているいびつな世界との、世界に対する個人の評価と言うか、世界観的なものとの違いがあることを無視して、誰も彼もに正しいものを求め、もっともらしい仮説を信じてしまう、そんな物理的な世界観…
あぁ、これか、こういうことなのか!
今まで哲学書を多数読んだけど、何一つ理解できなかった。いや、言葉の意味だけは拾えて理解はできたけど、それが僕の知識になることが無かった。それはつまりはさ、哲学書が語る世界は、最小公約数で、僕らが生きている世界は最大公約数だからなんだと思う。
何を言いたいのかな?
酔っているというのは便利な言い訳。なんかさ、もう疲れたんだよ。考えることに。でも、僕は考えないと生きている実感が湧かないんだよね。
自分の人生を俯瞰的に眺めた時に、僕はその時々の考えをトレースするから。
もしかすると、それが間違いなんだろうな(笑)