残念だけれとも、いると思う。少なくとも、僕の生きている、合理的で、効率的にならんとしている世界では。
でもね、親子二人で電車に乗っできた人に隣が空いている席に座っていた僕が、席を立って譲った時には、理屈は無かった気がするのだ。
だから、きっと誰かを助けるのには理由はいるけど、誰かを助けたことには理由は無いのだと思うのだ。
世界が有限で、僕らが感じる幸せは、オキシトシンと言うホルモンで、それは化学的に合成できて、やりようによっては、他のホルモン物質と同じように、注入することさえできる。
うろ覚えなのだけれども、それこそマトリックスの中で描かれた世界で、システムに従順に従う事で、絵に描いたような幸せな人生の夢をみせてもらうことを選んだ人のように、僕らは実際はどうであれ、幸せを感じることができる。
幸せが本当のことである必要も無ければ、今感じている、幸せが本当のものである保証もない。
だとしたらだよ、多分僕らは幸せを夢想した段階ですでに幸せなんではないかな?
ただ、きっとそれは、その夢想は、夢想でしかないから、そうではない現実に不安になり感じていた幸福が薄れてゆく。
だから、他人からも承認された現実、他人から承認される現実で自分が幸福であると言う感覚?思い込み?を補強しようとするのではないかな?そしてそれが多分、承認欲求ってものなのだろう。
何を言いたいかと言うと、実際はどうかはわからないし、他人からみたら決してそうではないかも知れないけど、僕は幸せだよ。そして、その状況が、理屈なく席を譲れる僕を作っていて、ともすれば誰かのために何かをするのに理由が必要な僕を作っているのだと思う。
僕はお金持ちになりたいけど、それ以上に、幸せだと感じ続けたい。