何が贅沢なのかな?
僕は、それこそ、恥ずかしい話だが、一人暮らししているときに、水道すら止められる程には困窮した経験がある。
当時は、生きることを諦めていて、死ぬ気とは言わないが、究極的に自分勝手になっていて、最後は死んでしまえば良いやって思っていた。
その頃の僕は、僕の当然の権利として、快楽を享受することや食べること、眠る場所があることは、他の誰かの迷惑になっても優先されるべきものだと思っていた。いや、そう思おうとしていた。
でも実際はさ、自ら死ぬ勇気も無くて、幸い、勢いで死ぬことも無かったから、生きるために悪足掻きをした。
でね、思ったの。
その時の僕は、良い給料は貰ってなかったし、とても世間的に贅沢な暮らしなんてできたもんじゃなかったけど、慎ましやかに暮せば、誰を傷つけたり、誰かに迷惑をかけたりもせずに生きていられた。
でもね、だけれどもね、当時の僕は、たとえ、毎晩のように飲み歩いて、酒のんで楽しいまま死ねたらな、なんて思いながら、その振る舞いが贅沢だとも思っていなかった。
その間ずっと、僕は、僕の在りたいと思っていた自意識とはかけ離れている自覚と、それが最大のストレスではあったのだけどね。それを、受け入れてしまえれば、世間的には最低な評価かも知れないけど、僕自信は楽になっていただろう。
でも、僕はそれを受け入れられなかった。
受け入れてしまっていたら、いわゆる、無敵の人と同じ心理になっていたのかも知れない。
今はね、いろいろあって実家に帰り、当時よりも大分良い給料と生活習慣を得て、何かにドはまりさえしなければ、意識せずともお金が貯まる生活を送っている。
在りたい僕とはまだまだ程遠い。だけれども、当時に比べたら断然幸せで、当時に比べたら、贅沢な生活を送っていると思う。
だから当時と同じように、僕は今、贅沢なのかそれとも貧しいのかが分からない。
要するに、何と比べるのか?なのだと思う。
価値観の揺らぎ。それによって、僕は、僕らは今が、幸か不幸か、贅沢なのかな貧しいのか。いわゆる価値観のベクトルが揺らぐ。
何か確からしい価値観を持てれば、迷いなく生きられるけど、その分、自由は制限される。一方で、何か確からしい価値観を持てないと、自由ではあるけど、その分だけ幸せやら何やらの価値観による評価が相対的になって、そこから得られる満足感なんて得られない。
こう考えてしまうと、ガバガバな論理的には手詰まりだよね。僕らは、唯一絶対の価値観を目指しているけど、それが差別や階級、ある種の固定的な社会がもたらし、逆にダイバーシティ的な考えを持てば、相対的な揺らぐ価値観の中で、何も確からしいものを得られないまま、ゆらゆらと生きて生きていくしか無くなる。
何が幸せかは分からない。
でも、生きているだけで幸せだって考えるのは、決して無駄な事では無いと、そう思いたい。