これまた主語の大きいタイトルをつけてしまったが、続けよう。
古典ラジオを聞いている。
障害者の歴史の回。でね、都市化が効率化を求めて起きた中で、効率化 の中から零れ落ちた障害者って文脈で語られた言葉にインスパイアされて書いている。
都市化が効率化ってのは、昔から思っていた事で、人があり共同体が生まれてできるコミュニティと違い、都市というのは、理念や理想がまずあって、設計され、作られていく。その過程で、非効率なものは排除されてさ、不快なものや非合理なものが否定され、やがて淘汰される。
それは、文化と文明の違いのように、文化が理屈ではない何かを包含しているのに対して、文明は、理屈のみで語れる世界であるのと同じで、最低限の、いわゆる最大公約数的なコモンセンス、それを一定の知性のロジックで共有できるのが文明で、都市で、その根拠に理性では割り切れない習慣に対する執着や、感情的に共有される文化なのだと思う。
究極的な効率化は、人間性の否定なのだと思う。
言葉に僕は引きずられている。
それを感じていて、その解釈やら定義だけて人生が終わりそうだけど、その間に世界は変わって言って、定義できずに永遠に続けられる営みなのだろうなって思った。
それだけのこと。
日本人はかつてエコノミックアニマルと揶揄されつつ、ジャパンアズナンバーワンとか言って、24時間戦えますか?とかって言葉がCMで流れ、受け入れられていた。その結果としての世界第2位の経済大国だったし、失われた30年になろうとしていても、それでも世界第3位の経済大国でありながら、幸福度の低い国家になってしまった日本なのだと思う。
今は働き方改革やらでそれらの価値観は否定されて、振り子のようにライフワークバランスとか言い始めている。
でもね、それさえもきっと効率的な世界を実現するために必要な揺らぎと言うか、効率的な遠回りと言うか、決して人を幸せにするために考えられたものではなくて、人を効率的に働かせる為に必要なコストを許容した結果なのだと思う。
その流れでさ考えるとさ、きっと僕らの幸福と効率的な世界ってのは共存することはできても、バランスを取ることでしか、winwinの関係は構築出来ないのだと思う。
でね、多分だけど、人間性ってものが変化するのが重要なんだろうと思う。
結局の所、歴史的に見れば今の僕の生活さえ王侯貴族の暮らしな訳で、たった70年前、60年前に比べたって夢のような世界なんだと思う。
その背景には、人間のあるべき姿ってのが変化して、効率化された世界にコミットしているように思えるのね。じゃ、効率化の目指す世界とは何なのか?それはきっと、歴史と言える単位での時代の人類の、人間の、ゆるいコモンセンス、それがその時代に求める理想像に対して、努力して実現しようとする働きによって描かれた、世界なのだと思う。
でね、その向かう先にあるのはきっと、人間性の否定なのだと思うのだ。
僕はね、スケベでどうしようもなく自分勝手でさ、世間の役にも立たないけど、だからと言って、不幸になって良いとは思わないし、自分勝手に幸せになれると思い込んでいる。
でもさ、世間の最大公約数と僕は違くて、イコールではないし、当然違和感を感じているから、常に僕は世界に違和感を感じている。
多分、この違和感こそが人間性、と言うか個人のアイデンティティなのだとも思うのだ。
それはつまりはさ、個人がさ、世界に対峙と言うか、接点を持とうとするとさ、どうしても、微妙な違いは存在しているし、それをゆるい共通認識として定義したのが人間性ってものだと思う。
それならばさ、人間性ってのはきっと、固定された概念ではなくて、ある意味で常に揺らいでいる概念で、酷く曖昧なものなのだろうと思う。