それはつまり、過去から得た知見を、未来に投影する働きに過ぎない。でも、僕らはどう足掻いても今にしか生きていられなくて、そう、僕は過去でも未来でも、何に対しても縛られたくない。
でも、人間社会と言うのは、不可逆性のある直線的な時間感覚、僕はそれを時感と呼ぶのだが、それに支配されている。
瞬間が永遠、つまり比較不可能な、相対的な時感から抜けて、唯一無二の絶対的な存在になることを経験しているにもかかわらず、僕は今を相対化して、今を生きられていない。
それはある意味において、習慣の勝利であり、きっと、コモンセンス?常識?あるいは、言葉に抽象化された存在たちの世界においては正しい在り方なんだとは思う。
でもさ、そんな世界と僕が生きられる今って相容れなくて。
僕は何を言いたいかというと、結局の所、何を信じるかなのだと思う。
与えられる情報に対する評価、それはつまりは過去に対する評価なのだけれど、それを以って未来を規定してしまう。だから、似たような未来しか人は得られない。
もっと、今を信じるべきなん…いや、べき論がそもそも過去の奴隷だ。
僕らは今にしか生きていないことを自覚すべきなのだと思う。
考える事を放棄しよう。