幸福のヒント?

僕による僕が幸福になるための、ヒント集にするつもりだけど、だいたい愚痴、ときどき妄想、たまに詩っぽいの

選択と集中

効率化、生産性、合理化、むり、無駄、無茶の排除…まぁ色々あるよね。

 

針の穴に糸を通す程の精度で、いわゆる、世間で言うところの成功と失敗が定義されていて、その反面で、自由って言うある種の劇薬が、そうね、麻薬のような効果と副作用がトレードオフしちゃっている、そう、今ここに無い希望を餌に成り立っている世界なんだと、僕は思うのだ。

 

僕らの抱える多くの問題はお金で解決できるのだけど、僕らの抱えている魂の問題は、残念ながらお金では絶対に解決されないのだ。

 

例をあげようか。

昨今のキャンセルカルチャーは、その最たるものだろう。オリンピックの作曲家の例を以て説明すると、そもそも論で彼が選ばれた過程に疑問があって、それをキャンセルさせる為の方便として、彼の過去の話題を持ち出したって構図なんだと思う。これってつまりはだね、なぜ自分の推しじゃないんだ?って疑問が1つの旗のもとに集約されていて、実は彼が露悪的なイジメの告白をした事を問題視したんじゃなくて、それは批難の端緒として使われたに過ぎないと思うのだ。

 

彼がした、あるいは傍観し、エンタテインメントだと思って話した内容は、今の世界では有り得ない。でもね、僕も似たような話は聞いたこともあるし、実際に、対象は障害者では無いけどさ、似たような現実に立ち会った事がある。

 

被害者が障害者であるかどうかが問題なのか?

 

未だにさ、目を多い、耳を塞ぎたくなるような事件なんて、いくらでも起こっているだろ?

 

石を投げ続けられる程、正しい人なんて、きっと居ないし、石を投げるのを止めた人が、石を投げ続けている人を批難する、抑止することに意味はあるけど、ちょっと目立った石を投げるのを止めた人に石を投げる事を正当化することにはならないと、僕は思うのだ。

 

だってね、僕は旭川の胸糞悪い、イジメ自殺かどうかじゃなくて、完全に性犯罪なのに、イジメってロジックでしか話題にならない世間に対して怒りと絶望を感じる。少年法だがなんだか知らないが、結局の所、一人の少女の死とそのプロセスが、彼女の自死とそこに至る社会の問題と切り離された、語る人の問題意識で、価値観で、他の問題を無視したり、否定したりする発言者の声の大きさ共有される問題意識が変わることに対して哀しみと怒りと、人間と言うよりは、動物的な諦めを感じてしまうのだ。

 

独白、嫌、毒吐か。僕はね、スケベだ。だから性犯罪に対して、二重に恐怖を抱いている。

僕自身が罪を犯しやしないかと言う恐怖と、自分の愛する人がその被害に会わないかと言う恐怖。

だから、もう42になってタチが悪くなり、性的な犯罪を犯してしまいそうな恐怖心はだいぶ小さくなったけど、相変わらず自分の愛する人が被害者にならないかって言う不安を消し得ない程度に性欲があってさ、性的な魅力よりも強い魅力に価値を持っているから、自分自身が本当に中途半端なんだよね。

 

いやさ、正直言ってしまえば、共有できる事実と思われる、言葉という概念に期待される中途半端さと僕の中途半端さはイコールなのだけれど…

 

何度かさ読み返して、自分でも何を言いたいのかわからなくなっててさ、本来ならば公開すべきではないのだけれど、でもね、正直に言うよ、多分、自分一人では辿り着けそうに無い場所に、近づけているけど、自分の弱さ故に他者の言葉が聴きたいと言う欲求と、ベクトルが違えばわかり合えない現実を前提にして…

 

って言うような事を、酔わないと語れない自分が本当に嫌だ。でもまあ、そんなんで生きていける自分で無ければ、今の世の中は生きていけないってのも分かるのだけどね。

 

色々飛んでしまって申し訳ないのだけれど、多分、僕は、多くの人は、こんな世界を生きているのではないか?

 

頭で考える理想と、身体感覚を伴った理想、そして世間って言う公倍数ではなくて、公約数的な狭い世界を生きている。