幸福のヒント?

僕による僕が幸福になるための、ヒント集にするつもりだけど、だいたい愚痴、ときどき妄想、たまに詩っぽいの

reason why

原因と理由を混同するな、というのは、僕の座右の銘の1つなのだが、最近、世の中がこの悪弊に翻弄されてる嫌いがある、と僕は思うのだ。

 

理由と原因は、非常によく似た双子のような存在だ。被る部分も多いし、でも絶対的に違う。

 

原因と理由の違いについて、僕は、いや、僕の定義は「そこに意思があるやなしや」というくらいの漠然としたものなのなのだけれど、でも、そこにはゼロと1程の絶対的な違いがある。

 

例えていうなら、種を撒いて植物は育つけど、何もしなくても、雑草は生え育つ。

 

野菜を、僕らがスーパーとかで買えるのは、意図的に誰かが育てているからだ。もちろん、生物である以上、放っておいても生えるのかもしれないけど、それを意図的にやっているかどうかによって結果は変わってくる。

 

僕が、こどもの日に朝から酔っ払っている駄目な大人なのは、理屈としてあるいは原因としては、世間のせいにできるけと、理由としては世間のせいにできないのと同じで、人の意思の介在の有無が原因と理由を分ける決定的な違いだと思うのだ。

 

だからさ、人は生きる理由を求めるんで無いかな?

 

僕らが生きている原因はさ、パパとママがチョメチョメしたからだけど、僕らが生きている理由としては、パパとママが愛し合い、いや、少なくとも、その結果産まれた僕らを愛おしく思ってくれ、幸せの形はわからないまでも、僕ら子供の幸せを願ってくれたからなんだと思うのだ。

 

自分の不幸を思うとき、誰か自分以外の誰かを悪者にしないと、とてもじゃないが、僕は生きていかれない。でも、逆に自分の幸福を思うとき、僕は、この恩を返さずに死ねない。

 

原因と理由ってのはさ、きっと人に許された、ある種の、何だっけ?なんかこんな存在を的確に表す言葉があったはずだがわすれた。

 

けとさ、きっと僕らの人生ってのは、死ぬ時に価値が決まる、厄介な理由を求める努力なんではないかと思う。

 

できたらさ、僕は世界から悲しさや苦しさ、ネガティブなあらゆるものを消し去りたいのだけど、イジメの問題と同じで、きっとそれは相対的な世界の、業と言うかなんというか、原因と理由みたいなズブズブな関係にある、価値観の問題なんだろうな。

 

だからさ、今生きている、全ての生命に告ぐ。生きている限り精一杯に、生きよう。

 

10日間も休んで、社会復帰できるか不安しか無い笑