よく週に一度のオフィス出社時の帰りに悩む。何を悩むかと言えば、夕飯のメニューだ。子供部屋のオジサンである僕は、在宅勤務時には母が用意してくれる夕飯を唯々諾々と食べればよいのだけれど、オフィス出社時の帰りには、それを自分で決めなくてはならない。
大抵の場合は、お腹は空く。けど、何を食べたいとかって明確にはわからない。それで悩むのだ。でも、時に、例えば、肉が食べたいとジャンルまでは絞れているときがある。そんなときには牛丼かステーキか、はたまた焼き肉かって悩む。
更に稀に、ステーキが食べたいとピンポイントで食べたいと思うときがある。そのときには、いきなりステーキかとんでんか、はたまた昔、家族で行った思い出の店のステーキかで悩む。
そして、かなり稀にこの店のこれが食べたいと思う事がある。でも、それでも悩むのだ。
ここまで絞れてくると、悩みは何を食べたいかではなく、食べるに値するか?というものになる。
食べたいものは明確だけれど、それこそ年に1000回以上している食事のたった一回、特になんでもない日の、夕飯メニューでしかないのだけれど、たからこそ悩むのだ。
お金を抑えたいなら、実はコンビニ飯よりも牛丼だし、食欲以上の満足を求めるなら、少なくとも牛丼は持ち帰りではなく、店内で食べないと果たせない。
ことほとさように人の悩みは複雑だ。
たった、一度の食事でさえ僕らは本当の望みを明確にはわからない。言わずもがな、人生でやりたいことなんて、そんな簡単には決めきれない。
その時時でいろんなやりたいことや欲しいことなんていくらでもあって、いくらでも手に入る。
見方によっては餓鬼のようにいつまでも求め続けるしか無くて、逆に言えば、いつだって自分を満たす方法なんていくらでもある。
本当に欲しいもの。
それを僕は知っている、つまりになっている。
でも、それが相対的な存在であることもまたわかっている。
それがどうこう言うつもりはないし、それでも、だとしても僕は僕が欲しいものを求めて行こうと思う。
賢さより、効率的であるより、僕は楽しく有りたい。