幸福のヒント?

僕による僕が幸福になるための、ヒント集にするつもりだけど、だいたい愚痴、ときどき妄想、たまに詩っぽいの

哲学的なこと

なんとタイトルを付けたものかと悩んだのだけれども、よくよく考えてみれば、いや考えるまでもなくタイトルを悩んだところで、なんだ。

何だっけ?ほら、あの人は見た目が何割みたいな法則。WEB上のコンテンツにおいて、タイトルと概要は要するに、検索エンジンにおける見た目なんだと思う。

職業病と言ってしまえばそうなんだけど、自分の謂わば心のデトックス用のブログのタイトルにもSEOをほんのりとではあるけど、意識してしまっていた。

でも、たぶんだけどこれが人というものなのだろうと思う。知っている知識があれば、その知識の源泉に拠らず使いたくなるものだ。

 

そこで問題になるのは、その行動、選択の目的が何なのかという点だ。僕のこの記事について言えば、別に誰かに読んでもらうことを想定して書いているわけでは無い。強いて言えば、いつの日か今とは違う僕が読み返すかも知れない事を想定して書いているのだから、SEOを意識する必要は無くて、でも、いつの日か読み返す僕とて今の僕とは違うので、目を引くタイトルをつけるのは無駄なことでは無い。でもね、数多のSEOを意識したタイトルから僕はこの記事を特別見つけやすくなるのかと言うと、そういうものでも無いだろう。

 

結局のところ、自分の求めるものが何なのか?そもそも、自分とは何なのか?そんな哲学的なことまで疑問は繋がってしまう。

 

ワン・イシューで判断できる問題ってのはなくて、どんな決断にも複合的な判断が求められる。

 

話はだいぶ跳ぶけど、エッチな事はしたいけど、誰とでもしたい訳じゃない。お腹が空いたら、何か食べたいけど、何でも食べたい訳じゃない。そこには、その欲求の度合いにも撚るのだろうけど、複合的な価値判断が求められる。

 

ただ睡眠だけは違うのかな?

 

あ、3大欲求の中ではって話だけどさ。

 

呼吸もそうか。呼吸は欲求では無いだろうけど、しないと死んでしまうし、なんならできなくて初めてしたいって欲求が生まれるものだ。

 

だとするとさ、禁じられて、制限されて初めて生まれる欲求と、肉体を持ち、基本的にいつでもその欲求が存在しているであろう欲求。そのコントロールを意識によって行っている欲求の二通りの欲求が存在しているのだろうと思う。

 

ん~~

もうなんか疲れて来ちゃった(笑)

気が向いたら続き書こう、書くかな?(笑)

 

取り敢えず、結論的なもの。

 

要するに、僕らはきっと複雑な価値のベクトルで曖昧な決断を繰り返して、酷く精度の低い自己コントロールをしている存在なのだろう。

 

極稀にシンプルな価値観のベクトルを採用できた人が、英雄だとか極悪人って評価を得ているんだろうね。

 

ま、それもさ、意味があるのかと言えば、人それぞれなんだけどね。