幸福のヒント?

僕による僕が幸福になるための、ヒント集にするつもりだけど、だいたい愚痴、ときどき妄想、たまに詩っぽいの

死に至る病

父はまだ生きている。が、近々に死が確定している状態である。さながら、ボーナス確定しているのに目押し出来ずにボーナスゲームが始まらないスロット台みたいな状態だ。脳梗塞で入院し、退院間近でコロナからの膀胱炎、そして敗血症性ショックの上で、腎不全。人工呼吸器までは、延命治療をしたけれど、意識が戻る事無く透析が必要な状態となり、今後、意識が戻る見込みがないと診断されて、家族で話し合い、透析非導入を決めた。それが、たった四日前の事だ。先週金曜日に危篤に陥ってから1週間。退院を目前にして、脳梗塞の後遺症から介護認定3と診断されて、我が家でも受入準備を進めていた中での出来事。正直なところ心が追いついていないと思う。

覚悟はした。したと言っても、きっとその時が来たら慌て、混乱し、取り乱すことだろう。だけれども、覚悟はしたとしか、言いようが無い。回復する希望も無ければ、嘆きや悲しみも無い。

今の状況を嘆き悲しむにはあまりにも、わかりにくいのだ。

意識が無いのと、自発呼吸が殆ど無いのと、昇圧剤無しでは血圧が保てないという見た目では判断付かない危機的バイタルが死を近くに感じさせているが、それ以外は、唯一表面的に出ている異常としては、パンパンに浮腫んてしまった手だけで、今にも目を開けて病院食が不味いと文句を言い始めそうな様子なのだ。

その状態で、葬儀社に連絡し、親戚縁者にも連絡を入れ、資産価値のあるゴルフ場の会員権やら株券やらの処分方法を調べ、淡々と父の死に備えて準備を進めている状況に心が追いついていない。

理屈ではわかる。腎臓が、働かずに尿が出ない状態の身体が透析無しでは持って数日から2週間だと言われている。その理屈も理解はできるし、結果として、死を迎えるのはその通りだとわかる。だけど、心が理解することを拒否している。

意識がある無し関係なく、助からないのであれば父が苦しまないことこそが、僕ら家族の願う最善ではあるのだけど、そのための決断が正しいものだったのかについて一切の自信が持てない。

人は生まれた瞬間に死の宿命を背負う。そこに至る道筋に正解は無いのだろうけど、それはきっと自分で選んでさえいれば、それが正解なのだと思う。だけど、死のその瞬間を、その正解を家族とは言え他人に委ねるのは、ちょっと違う気がする。責める気はないが、そこは父に対して少し思うところがある。

そう考えるとさ、正解を他人に委ねること、僕らは普段からし過ぎでいるんではないか?