父の葬儀を終え、早1週間が経とうとしている。
もう僕も良い歳だし、老衰死ではないが、父の死もどちらかと言えば寿命だったと諦めのつく死だったこともあり、必要以上に悲観的になること無く過ぎている。それでも、どこか、こうして文章にする時、少し心をギュっと握られるような、そんな疼きと言うか心地の悪さを感じる。これが悲しみというものなのだろうか?だとしたら、こんな気持ちをずっと抱いて暮らすなんてとてもできたものではない。
良く言われることだが、葬式というのは残された家族の心を失わせる程に忙しくさせる目的があるというのはその通りなんだと思う。母はきっと、忙しさのお陰で悲しみと距離を取れている感じがする。
儀式、つまりは式というのは、人間社会が生み出した成功プロセスなんだと思う。誰にとっても意味のあるものであればこそ、誰にとっても意味はあるものの、その意味は薄く、それぞれに都合よく解釈できるようなそんなものなのだと思う。
死の儀式は本当に良くできていて、葬儀が終われば、次は49日だ、新盆だと、マーケターもびっくりなほどマネタイズポイントが多い。でも、それが、その意味は参加するその人それぞれで決めて良く、これが正解ってものも無いのだろう。