幸福のヒント?

僕による僕が幸福になるための、ヒント集にするつもりだけど、だいたい愚痴、ときどき妄想、たまに詩っぽいの

殴り合い

小学生だった僕は、人を殴って死んでしまうなんて分からなかった。だから喧嘩するのに躊躇はなかったし、おかげで、殴り合いの経験を得た。

中学生位になって、身体が大きくなると、殴って人が死ぬかも知れない可能性を感じて、手加減を覚えた。でも、いざとなれば、いつでも拳を振るえる覚悟はあって、実際、振るった。

高校生になると、暴力がコミュニケーションの手段としては、安易で刹那的なものだとわかって、最悪な手段だとわかったから、振るうまいと思った。でも、同時に誰もが僕と同じように思う訳じゃないから、いざとなれば、振るわざるを得ないと、消極的に覚悟して、実際、振るう事があった。

大学生になると、暴力よりも、社会的、法的な制限が一般的には強くて、暴力は一切封じようと思い、振るう覚悟も捨てたけど、巻き込まれて振るう事があった。

社会人になって、いかなる理由があれど暴力を振るえば、社会的に死を迎えると知り、いや、実際には死にはしないけど、何ひとつ得るものもない事を知り、余程のことが無ければ、更に強く封じようと思い、頑張ったけど、巻き込まれて振るう事があった。

オジサンになって、酔っ払いに絡まれても、暴力で守れるものって本当に僅かなものだと気付いて、逃げるって事ができるようになって、暴力を振るうことは無くなったけど、世界には暴力に溢れていることを知り、衰えて行く自分の身体と、それによって生まれる暴力にに対する恐怖から、筋抑止力という考えに至った。

 

筋肉至上主義では無い。

 

けど、若い頃にいろいろ経験したおかけで、実際に暴力を振るわずとも、ある程度相手の身体を見て、僕は勝てる/勝てないがわかるようになり、関係性の構築ももちろんだけど、瞬間的な関係に対する評価も、ある程度間違いなくできるようになって、ある程度戦える身体を維持しておくのはリスクヘッジとして無駄ではないと思った。

 

おかげで、吊るしのスーツでは、胸部がキツイけど、心理的安心感は得られる。

 

だから、国家で言うところの防衛費と僕の筋肉に対する投資額は同じ性質を持つのだと思う。

 

でもさ、マッチョばかりの世界を想像したら気持ち悪いじゃない?

 

理想と現実は違うのはわかるのだけど、でも、現実に引きずられる理想、理想によって誤認される現実はあってはならないし、結局のところ僕らはさ手探りでできることをするしかないのだと思う。

 

何を言いたいかと言うと、僕はゴリマッチョにならない程度に筋力付けて、平和を希求して生きてゆこうと思うのだ。

世界が、世界中の人がそう思えたらきっと地上から銃声や、悲しい叫びが消えるのではないかと、少しだけ期待してる。

 

僕の言葉がそれを導けるとは思えないけど、無駄では無いと信じて。