自分のことを理解したくて、自分のことを見たくて、見つめると、そこには醜悪な存在がいて、でも、それは自分であることが否定できなくて、それでも、いや、だからか?目をそらすこともできなくて、だから僕は、僕って代名詞に自分を薄めて、僕の中の美学に反する自分の責任を、僕って言葉、私って存在、自我って言う枠に溶かして、やっと対象化できる。
何をしたいのかな?
そんなこと考えるのだって辛い時もあってさ、でも死ぬほどでも無い。
だから、
ただただ、今を過ごして、気付いたら、何もかもが過去になって、
残り時間を数えるようになる。
何が正しいかは問題ではなくて、
何を信じて、信じ切って、行動を選択するか?
それだけが、まともに生きていると、自然に薄れてゆく僕を留め置く方法なのだと思う。