幸福のヒント?

僕による僕が幸福になるための、ヒント集にするつもりだけど、だいたい愚痴、ときどき妄想、たまに詩っぽいの

これはさ、メモなんだけど、何もよりによって今日、こんなメモ公開することもないのだけれども…

 

気付いていた、と、思うのだよ。自分が誰よりも自分に対する批判者であり、逃れることの出来ない価値観なんだと。

 

僕はさ、他人の目を気にするのね。でもさ、都合よく、他人の目を無視することもある。だから。ではないのだけれど、今、告発されたら有罪となりそうな過ちさえ冒したさ。

 

 

でね、多分だけど、自分自身の目さえ無視することがあるんだよ。で、他人と自分の違いなのだけれども、他人は物理的な環境を変えれば逃げられるのだけれども、それは所謂リセット癖的な、逃避かな?

で、まぁ、自分からは環境を変えただけでは逃げられなくてさ、自分自身が変わらなきゃ逃げることは出来ない。

 

でね、そうであって欲しいと思うのだけれども、僕もね、僕自身、つまりはさ僕にとっての自分もね変わったと思う。

 

そのおかけで、多分だけど、過去の自分にとっては、なんか自分自身からも逃げ切れた、と言うか、つまりはさ価値判断する主体が変わったから消えた罪の意識というか、後悔?もあるとは思うんだよね。

 

でさ、今の自分は逃げ切れたなんて感覚も無くてさ、常に新しい自分から責められて、ふとした瞬間に自分自身への罵詈雑言を、ある種の快楽とともに吐き出している。

 

多分、これはさ自虐的なオナニーで、自分がそうすることによって、自分自身が自分を許す為に吐いた嘘なんだよね。今の自分を肯定するための儀式なのかな。

 

正しさを信じて、正しさに殉じた(あえての殉じた、ね)事への快楽と言うか、安心感と言うか。結局のところ、僕は、僕自身は、反省することからも、逃げて、正義とか言う最大公約数っぽいドグマへの逃避なんだろうと、酔っぱらいの僕は思う。

 

あ、なんかわかっちゃった。悪は存在しない。ただ、悲しい人がいるだけ。

 

きっと誰もがしあわせを感じたいだけなんだよね。

 

意味や理屈無しに幸せになれる、所謂麻薬があるのに、それを罪とするのは、きっと、僕らが、器質的な存在というだけでなく、概念的な存在だからなんだろうなって、とっくの昔に確信した事実を記して終わろう。

 

答えは出ないさ。出たときが僕の終わりだからね。