幸福のヒント?

僕による僕が幸福になるための、ヒント集にするつもりだけど、だいたい愚痴、ときどき妄想、たまに詩っぽいの

あけましておめでとうございます

もう何年くらい続いてるかな?

10年くらい前に、当時副収入を求めて始めたブログ。意外と?想定通り?あっという間にただの日記に、日記というのも憚れるような、思考や想いをだだながしにするだけの場になってしまった。

 

それが悪いことではないと思っているし、ある意味で!想いや、考えの、謂わば排泄行為に近い。

 

ここに書いていることの殆どは、書いたあとに意識することも無いのだけど、極稀に読み返して見ると、あ〜そんな昔に同じ事考えてたんだって思うことがある。

 

たぶんそれは、食べ物と排泄物の関係性と同じで、インプットする情報が似ていれば、アウトプットされる内容も似てくるのだろう。

 

哲学を学んで、インド哲学?仏教?の輪廻と言う時間軸で、似たような箇所を人は巡るって考え方は、確かにそのように見えるのだけれど、でも、巡ると言うならばだ、おそらくその中心があって、僕はその中心を求めているのだと思う。

 

それは、自己と世界を垂直的に掘り下げて、最小公倍数と最小公約数とを比較するのに似ていて、自分を掘り下げて行けは、自分が見えなくなり、世界を掘り下げてゆくと、最終的に個人と言う具体的にはどこにもいない、個別具体的な意識が考える概念?ゆるい共通項だけ、謂わば意識される対象としての、外骨格的な条件集、定義の集まりなのだと思う。

 

僕、と言う存在は、恐らく動物としての感覚と、それに対する価値評価、それは経験や状況によって変わる個別具体的なスケールで評価されて、それと外骨格的な定義の集まりである世界における自分との差異、それこそが僕の、僕が意識できる僕なのだと思う。

 

だとしたらだよ、僕が感覚的に、個人的に幸せになるためには、より動物的に生きるべきで、社会的に世界的に幸福に生きてゆくなら、より外形的な定義に従順に生きてゆくべきなのだと思う。

 

でも、それがInstagramでの映え文化によって、壊されたのだと思うのだ。

 

キラキラした世界に憧れるのは仕方ない。

僕自身の問題で言えば、セックスに対する信仰なんだけど、オナニーとセックスだとどちらが気持ち良いかと言われると、オナニーの方が気持ち良いのだが、セックスの代替、劣化版であるという意識、いやたぶんその通りなんだけど、自分の身体が、気持ち良いのはどっちだ?と言った場合、オナニーがある種の排泄と同じ生態的な反応での気持ち良さに対して、セックスは社会的な評価と言うか他者が介在する事で初めて成り立つ行為であり、そこに複数の価値観と言うか、極めて個人的な問題であるにも関わらず、その延長線上と言うか、そのものとも言えるけど、社会と結合しているのだと思う。 

 

で、Instagramさ。映え文化さ。

 

それは完全に、意図された外形的な評価を得る事を求めた行為。でも、その根本には、寂しさに押し潰されそうな、生の、個人の、欲求があって、自虐でも、キラキラ世界でも、そこには、僕はここにいるよ!と言う叫びを、僕の空耳かもだけど、聞いてしまう。

 

10数年、いやもっとかな?哲学って学問を知ってから、いやそれ以前から単に生物として生きる以上の何かを求めた瞬間から、同じようなところをぐるぐる回っている。

 

吉幾三の、日本初のラップで歌われた、お巡りのようにぐ〜るぐる。

 

あと、どんだけ巡る事ができるのか?

 

わからないけど、2023年二日目にそれなりに酔って、こんなことを僕は思ったんだ。