僕の大学時代の卒論はマルティン・ブーバーの「我と汝」
とか、木村敏さんの「あいだ」
を主題としたものだった。
ご多聞に漏れず、僕の書き上げたものも”自分史”だったけどね。
僕の中にある思いつきがあった。
人っていうのは、いろんな面がたくさんあって、面が多くなればなるほど球体に近くなってゆくんじゃないかな?って。
それはつまり、人って相手を認識して、自分との間に新たな面を作って構成されてゆくものなんではないだろうか、って感じのこと。
多体問題とか当時の流行で「複雑系」やら「カオスの淵理論」なんかも取り入れて、出来上がったものは自分でも何を書いたんだかわからないものだった。ただ、文字数だけは多くて、指導教授より「うん、本当によくがんばったね」と褒めてもらえたのか、呆れられたのかわからないコメントをもらい卒業させてもらった記憶がある。
あれからもう10数年。
哲学書を読むことも多くはなくなったのだけど、未だに僕は悩んでしまう。
フローチャート化されたマニュアルから外れる出来事に出くわすと、その対処方法について自分で悩み、考えなければいけない。
答えがでず、堂々巡りになる悩みも多くて、でもだからと言って悩んでばかりもいられず、「とりあえず」と居酒屋でビールでも頼むみたいな感じで暫定的な答えを出して局面を乗り切っている。
相変わらず、フワフワユラユラ。
昔、子供の頃に触った父の手は硬くゴツゴツした働きものの手だった。
金型作りをする会社で働いていた父は職人ではなかったはずだけど、今の僕の手のように柔らかくはなかった。
そこに負い目を感じる必要はないとはわかっているのだけど、ずいぶんと自分が幼く未熟なように感じてしまう。
比較することで人は評価し、時に傷つき、時に尊大にもなる。でも本当は比較する必要なんてなくて、ただ単に他者との違いによって自己を知るだけでいいはずなんだけどね。
そう、僕が書いたのはそんなことだった。
結局世の中のあらゆるものが相対的な存在で、その相対尺度は自分の中にしかないのだから、僕らは本当は争い傷つきあう必要はないはずなんだって感じの結びだったような気がする。
このブログでもそうなのだけど、だいたい後半は力技でねじ伏せるwなんかめんどくさくなっちゃうの。
で、早速力技。
そんなこんなで、僕は未だに自分のこの考えを根っこの部分では持っていて、その考え方に響くものを好んで記憶してしまうらしい。
で、ご紹介したい言葉はこれ
ドラマ「純と愛」より
この世には所詮、不完全な男と不完全な女しかいない。だから互いを励ましあい、補いあい、支えあって生きていこう。私の愛があなたをつくり、あなたの愛が私をつくるんだ
これ、マルティン・ブーバーも似たようなこと言っているんですよねぇ。
作中ではトルストイの言葉とされているみたいですけど、どうも違うらしいし。
男と女に限らなくても、これは成り立つと思うんですよね。
僕はたくさんの愛で作られている。
バファリンみたいな存在です。