※差別的な用語を用いておりますが、その意図はなく、単に自身を表現する言葉として使っております。ご不快な印象をお持ちの方には大変申し訳ございませんがご了承いただきますようお願いします。
愛するということは快楽で
それだけで、
相手だけではなくて、
自分の存在をも承認できる素晴らしい行動だと思う。
他者を愛すると一言で言っても
その人の全存在を愛していると言うことは残念ながら稀なことだと思う。
なぜなら、僕ら人間は自分自身の存在を”ペルソナ”で規定してしまっている。
As 子供、As 恋人、As 部下、As 上長、As 親、As etc…
それぞれの立場に立って、それぞれの役割として、それぞれの必要な相手のペルソナを愛してしまう。
でも、僕の母は違った。
僕が彼女の息子だから彼女は僕を愛し始めたのだろうけど、その愛は僕の全存在を包んでくれた。
僕の父もおそらくそうだろう。
僕が彼らの”息子”として、彼らの望むような存在でなくても、彼らは愛し続けてくれている。
そして、その想いは、くすぐったく、時に重苦しくも感じるけど、僕を幸福にさせてくれる。
だから、僕はどんな人でも愛そうとする。
いや、理屈としてはそうなんだけど、本当は違うのかもしれない。
僕は愛の快楽を知ってしまった。
愛すること、愛されることで感じる幸福を知ってしまった。
だから僕はどんな人でも愛そうとする。
理性?悟性?経済的センス?
いや、この際、呼び名はどうでもいいだろう。
人が”理解”できる、わかりやすい天秤では、僕の行動、僕の振る舞い、僕の生き方は愚かに見えることだろう。実際、自分でも愚かだと思う。
世界中のあらゆる存在が幸福であればいいと願っている。(結構真剣に)
そのために自分が犠牲になることなんてあり得ない。
だって、愛の源泉だけは無限なものだから。
ただ、人の世の中では”時間”が有限。
傍から見たら僕の生き方は不器用過ぎるのかも知れない。
よく”残念な人”と言われる、たぶん愛情を込めて。
でも、僕は自分を不幸だとは思わない。
ほんの数回、電脳空間で0と1に変換された言葉を通じて僕を幸せにしてくれる人がいる。
僕の不器用な愛情表現を必要としてくれる人たちもいる。
これ以上僕は何を望めばいいのだろうか?
とは言え、僕も世間的な感覚を持ち合わせている。
今の自分の境遇が決して”世間的”に幸福と言われないのもわかっている。
いや、わかっちゃいないのかな?
でも、結局僕が望むものは世間的に承認される”幸福の形”を実現できたとしても変わらない。
そう。「メキシコの漁師の話」のように、欲しいものは既に手に入っているのかもしれない。
だから、僕は伝えたい。
たとえ誰から何を言われようとも、あなた自身の声に耳を傾けて、あなたの本当に望むものを探して欲しい。
それは"有限な”時間と共に変化するものではあるけれど、きっとあなたを幸福が幸福を感じる何よりもの”ヒント”になるはずだから。
言い訳じみた締めになっちゃうけど、たぶんこれが僕のインセンティブ。
僕が生きていく意味なのかな?
愚か者と、白痴と言われてもいい。
僕はきっとそのものさしの外側にいるから。
I love you
~End~
昼間からテキーラ飲むとやっぱヤバイw
創作なのか、本心の吐露なのか、自分でも区別がつかなくなります。
エリック・フォッファーとか、こんな映画が好き