幸福のヒント?

僕による僕が幸福になるための、ヒント集にするつもりだけど、だいたい愚痴、ときどき妄想、たまに詩っぽいの

おっさんの慟哭

いや、タイトルはオバサンでもいいのだろう。小町あたりで叩かれる、婚活ガリガリの人たち界隈について、多少の援護と、否定の論述をしよう。ま、つまり少々の自己弁護と自己批判なのだけどね。

 

心が変になると書いて恋とは良く言ったもので、恋は人を狂わせる。正解の無い問い掛けが、誰にも訪れる。それはあるいは性欲と、性欲を正当化する詭弁と言っても言いのかも知れない。でも、えげつない例えを許してもらえるのなら、オッパブ行って、まさぐったところで満足するどころかよりムラムラするだろうし、性的なお風呂行ったところで、数十センチの海綿体が、それが入るべくして設計されている器官に収まったとしても、得られない何かがあるんだ、きっと。

 

で、多分だけど、みんなさ、こんなんが嘘だってのも気付いてる。

 

間に合わせのセックスだって気持ちが良いだろうし、その瞬間は幸福なんだ。

 

でもさ、オッサンになり、それなりに経験してしまうと、それさえ疑わしいんだよ。

 

子供を持ち、幸福そうに見える友人たちをから僕は幸福だとは思えない。

 

かと言って、インスタントでコンビニエンスに気持ち良く、楽しいことをと否定できるほどの強い意志も無い。それが僕なのだけど、そんな僕は永遠の愛やら無償の愛とかって言う、ツチノコレベルのUMAに憧れ、斜めに探してしまう。

 

つまりはだね、僕は正解を求めているのだ。誰にとっても正しい、それこそUMAどころか、それ以上に怪しげで、神々しい何かを。

 

で、気付いたの、要は、僕は言いたいのだ、「僕が悪いんじゃ無い、世間が悪いんだ」ってね。

 

そうしないとさ、きっと僕は、ぼくみたいな人は、この世界が生きづらくて、いつだって、死にたくて、でも死ねないくらい愛されてる。

 

苦痛と言う他、無いのだけれど、もしかしたら、苦痛も幸福も同じものなんだろうね。愛されている幸福と、その愛に応えられない自分の我儘、確信とのせめぎ合い、それが人生、なのかな?

 

ならさ、僕は、いっぱい多くの人を愛して、自分の仲間を増やそうと思うんだ、あなたが仲間になってくれることを祈って。