幸福のヒント?

僕による僕が幸福になるための、ヒント集にするつもりだけど、だいたい愚痴、ときどき妄想、たまに詩っぽいの

自分のこと

いきなりセクシャルな事を言うけど、ごっくんされるとそれだけで惚れちゃいそうになる。

そこには、ある意味、男性のアレは子種ではあるけど、男性が性的快楽を得るプロセスにおける排泄物と言う男性視点での思い込みがあるとも言える。それをさ、唾棄せずに、飲み込んでもらうことに、何かしらの意味を見出してしまうのは仕方ない事だと思う。僕は男性で、女性の思惑なんてわかるつもりも無いけど、だとしても飲み込むのにはそれなりの抵抗があるのではないかと思う。

だが一方で、僕が大人だからって言う理由で、その自覚は無いけど、それでも饗応された際には出されたものが嫌いなものだとしても、アレルギーとかがなければちゃんと食べる。もしかすると、そう言う礼儀的な義務感なのかも知れないけれど、それでもごっくんされると嬉しいし、愛おしいと思う。

 

でもここで思うのだ。僕はどこまでが僕なのか?

 

キスやセックスは体液交換とも言われる。が、おしっことかうんちとか、それについて交換したいとは僕は思わないし、極稀に、そう言う性癖の人もいるらしいけど、僕の感覚ではそう言う人とその点で共感できる気はしない。

 

でもね、いろいろ考えるときっとそれは身近な問題と同じ、どこまでが自分であり、他人であるかを問うものだと思う。

 

年頃の娘がお父さんの下着と自分の衣服を一緒に洗って欲しくないと言う、よくある?ある種のテンプレートな嫌悪感は、お父さんを保護者としてではなく、オスとして認識したことで発生する拒否反応なのだと思う。

 

でも、お父さんのパンツはお父さんか?いや、それ以前にお父さんは、娘に嫌われているのか?僕の理屈で言うとそうではなくて、お父さんの男性性に対する娘の禁忌意識、その拡大解釈によって発生しているのではないか?

 

僕らはきっと、自分の範囲というものを様々なスケール?レベル?範囲?で持っていて、それはある種の自己認識とも言えるのだけれど、その濃淡があって、且つ意味性の縛りがある。

 

キスやセックスは、その行為自体が感覚、知覚できるけど、自分の肌を離れたものに対しては感覚することができず、知覚するしかない。

 

それは、シャーロックホームズのサセックスの吸血鬼?のように、毒を吸い出そうとしていた行動が血をすすっているように思われるのと似ていて、僕らの感覚と、そこから得た情報を総合して価値体系によって与えられる価値感は必ずしも正確ではない。

 

究極的に僕らは自分の範囲を、自分のナラティブで理解し自覚している。だから、永遠普遍の絶対的な法則とか理屈なんて存在し得ないし、話したってわからないことばかりだ。でも、結局のところ、それって年頃の娘がパパのパンツと一緒にキャミソールを洗って欲しくないと言ったときに、お母さんの言う「じゃぁアンタが洗濯しなさいよ」って言葉に対する行動と似ていて、それは相対的な価値判断に過ぎないと思うのだ。

 

僕は、自分の愛する人が侮辱されたら、最悪、そのタイミングによっては侮辱した人間の人生を終わらせるほどの怒りを覚えると思う。

 

その観点に立つと、世界の平和はきっと自分の拡張によってのみ果たされるのだと思う。でもそれを無限に拡張すると、分かり易いとこでビーガンになり、ビーガンですら植物を食べるのであれば、その先にあるのは無への回帰なのだと思うのだ。

 

だが、僕は、僕という存在は、ごっくんしてくれる女を愛し、愛されればきっと幸せなんだと思う。