人類皆、中学生。だと、僕は思う。
永遠普遍の恒久平和を求めたカントと僕の考えた最強の◯◯を考える中学生との間に根本的な違いは無いと思うのだ。
良くも悪くも何かと純粋になりがちな子供の行動規範。当然、純粋であればある程、それ以外の規範からの反発を受け、大人になればなる程にそれらと折り合いをつけて、自分にとって良いところに落ち着かせる経験やスキルが身について行くけど、根幹は変わらないのだと思う。
そんな中で、お金と言うものは色もなく、誰にとっても同じ価値があるものだとされている。でも、本当にそうだろうか?共感覚ではないが、僕にはお金の色が見える気がしてならない。
パチンコで勝つたお金は使うのにそんなに考えたりしないけど、自分で稼いだお金は熟考して使う。ま、それも僕は上手く使えているとは思えないのだけど、とにかく、同じ1万円もパチンコで勝つた時にはパァっと使ってしまうけど、稼いだ金はコンビニ飯でさえ悩む。
結局それはお金の背景にある何かをお金に乗せて判断してるのだと思う。
それを色と言うならば、確実にお金には色がある。
で、政治と金の話。
お金には色がある。
政治家が、私財を擲って肌色の多いダンサーといろいろしても僕は何も言わないし、金額によっては混ぜてもらいたい。だが、それが僕の稼いだ額の一部が天引きされた税金から出てるとしたら…やはり混ぜてもらいたい。
僕はスケベたから、政治家を非難できないのだけど、正直に言えば羨ましいし、そこに僕の払った税金が使われているのなら多少なりともその場にいる権利を主張したい。
でも、どうやら僕の払った税金ではないらしい。
冗長になり過ぎた。
要するに、僕は何が僕の払ったお金であるか、と言うのを考えるのだ。
僕がもらっているお給料は僕が直接お客さんからもらったものではない。けど、それをもらうために僕は自分の人生や個人的な価値観と直接的には関係ない業務をこなす労働力、つまりは僕のこれまでの時間と体力やらを使って得た能力と、時間を提供して得たお金だが、それを支払った会社からしたら俺の払った金を無駄に使うなよ!って気持ちを持っても仕方ないように思う。なので、僕は滅多にパチンコに行くことを会社で話さないようにしているし、勝っても負けても自分の心のなかでこなすしか無いものだと思っている。
で、同じ事がきっと政治と金の問題でも起きているんだと思うのだ。
どこまでが僕の金なのか?
なんなら、お金ってやっぱり色や匂い、表情だってあると思う。
極論なんだけどたぶん全部僕のせいだと謂うとそのほうが楽なんだと思う。
インフレで生活が厳しいのも、地球温暖化も、ウクライナの戦争も、パレスチナの問題も、ミャンマーの問題も、ジャニーズの性加害や松本人志の問題も、トーヨコの子どもたちの置かれた状況も全部、ぜ〜んぶ僕のせいだ。
そう考えるとやっと僕は世界の中に自分の居場所が見つかる。
そして、その中での共通言語としてのお金。そのお金には方言があって、かつクオリアもある。
最小公倍数なんだけど、そこに素数を含めようとする努力が人の世の中で生きると言う事なのだと思う。