実際に筆を持っているわけでも無いし、筆自体が泳ぐ事も無い。なんとなく思いついた比喩だけれども、たぶん、言いたいことは伝わるのではないかと思う。
何を書こうか。そう、考えている。何も書かなきゃ殺されたり、お金を取られる訳ではないのに、僕は書きたいのに何を書いたら良いのかに悩み、筆を泳がしている。筆を持っているわけでも無いのに。
週末になると、お酒を飲みながらサウナを目指し電車に乗る。乗って酒を飲む。そんな生活は、かれこれ4,5年過ごしている。
最初は、いや、今でもそうだけど、楽しいし贅沢な時間だと思っている。でも、やっぱり飽きは来て、いつからか、そこにパチンコが入って来ていた。
パチンコはさ、飽きているんだよね。でも、どんどん出てくる新機種や、さもしい欲、努力せず解消したい退屈なんかの理由で、止めることなくダラダラと生活に組み込まれてしまっていた。
そんなパチンコを止めようと思っていて、今月はまだ一度も行っていないし、もう二度と行かないと思う。
するとさ、凄い暇なのね。
だから、だから?両毛線乗って、景色とお酒を楽しんでいる。楽しんでいる?のかな?
もうね、わからないのだと思う。いや、わからないと言うか、確かに田舎住みの身とは言え、山がこんなにも近く見えることもない僕にとっては、素晴らしい景色だし、楽しんでいるはずなのに、僕はスマホの画面ばかり見ている。
多くの場合、何にせよ、刺激が強すぎて、何が大事なのかが分からなくなっているんだと思う。
なんかね、最近思うのだけれど、人間の基本は生化学的?物理的?なルールよりも、もっとプリミティブと言うか、単純なルールで動いているように思う。
人のメンタルやら、精神も込で、科学が明らかにした理屈で説明されるけれども、その実、僕という個人の行動自体は、後付の理屈でしか理解出来ないことが多くて、振り返って見れば、反省ばかりなのだけれども、その根拠と言うか、原因には刺激の強さの一過性と言うか、その時々に受けた刺激を相対的には判断できない事にあるのだと思う。
何を言いたいかと言うとね、きっと繰り返し言っている事ではあるのだけれど、僕らは今にしか生きられない。
振り返った僕を集めて、僕という自覚を得てはいるものの、それでも僕は今にしか存在することはできず、今にしか感じることが出来ない。
だというのに、だよ。僕は、その今に退屈を感じ、こんな文章を書いてしまっている。
なんだかな