幸福のヒント?

僕による僕が幸福になるための、ヒント集にするつもりだけど、だいたい愚痴、ときどき妄想、たまに詩っぽいの

善のイデア

最近、ハゲタカの新刊を、僕にとっての新刊を読んでいる。何度かこのプログでも触れてきたが、真山仁さんのハゲタカだ。もう20年近く前になるけど、NHKドラマのハゲタカからハマった。「お金を稼ぐことは悪いことですか?」(みたいなセリフ)に痺れた。

資源が有限であるが故に、その効率的な配分をするために資本主義と言うルールに基づいて、経済活動が行われている。そこには、その原理には、良し悪し、善悪などの評価は無くて、量的な比較と仕組みだけだ。しかし、経済活動は必ずしも量的なものだけでなく、質的な、あるいは量に変換できそうな価値をも巻き込む。

栄養価が高く、資源としての量も豊富な食材でも、その味が多くの人に好まれなくては価格が高くはならない。キャビアやフォアグラとかが高価なのは、万人受けして希少というだけでは無く、そのものが持つプランド力でもあり、高いから高いのだ。

以上の事から、経済活動の理屈としての資本主義と経済活動を内包する人の人生の規範と言うかルールと言うかは、お互いに侵食しあい混ざってしまっている。だから善悪などの、本来絶対的な価値スケールでさえ曖昧になり、混乱が生まれている。と、僕は思う。

そしてそれを僕は決して悪いことだとは思っていない。いやもうアレだ、ハッキリ言うと、善悪でものを考えることの方が危険とすら思っている。

 

正義の対立概念は悪では無く、別の正義だとは良く言われるが、その通りで、平将門が怨霊とならなかったら別の誰かが怨霊になっていたのだろうし、ヒトラーでなければ、アイヒマンやなんならフォンブラウンが世界史上の悪とされていた可能性だって無くは無い。

 

で、話は飛ぶのだけど、幸福を感じるのに理由や原因は必要なのか?と言う話。

オキシトシンが人が感じる幸福感の源泉ならば、僕はオキシトシンオーバードーズして死にたい。

でも、そんな事しなくとも、寒い日に温かいお風呂入ったり、愛する人と、例えそれが世界に認められた美男美女でなかったとしても、愛し合えるその瞬間だったり、空腹時に食べるうまい棒だったり、それこそ、朝起きて浴びる日光だったとしてもオキシトシンは出るのだろうし、やがて僕は死ぬ。きっとだけど、人は何もしなくても幸福なのではないだろうか?ただただあるのは、幸福だと確かめたくて産み出す不幸だという幻想なのではないか?そのために、その為だけに絶対普遍な善のイデアと言う概念があって、無限に不幸を生産しているように思う。自分が正義であることや、それを他人に認めてもらうことに誰もが共通して持つ価値感として、善のイデアは存在する。でも、それはきっと、その存在には誰も至らず、ただただ悪や不幸を生み続けているのではないか?

 

ヤバい。なんか真理に辿り着いた気がする。

 

ほら、こんなにも簡単に人は幸福になれるのだ。