幸福のヒント?

僕による僕が幸福になるための、ヒント集にするつもりだけど、だいたい愚痴、ときどき妄想、たまに詩っぽいの

自由とは?

自由を語る前に、自分について理解しなければならない。

僕も、もう45になる。そしておかげさまで、幸いにも今まで刑法犯にもならずにいる。刑法違反をした事無いとは言わない。望んで違法行為をしようとは思っていなかったけど、やむを得ない理由で、違法行為をした経験はある。

何をやむを得ない理由とするかの問題がまずある。僕が犯した刑法違反は具体的に言えば、中学生の頃の万引きだけれども…まぁそれ以外にも歩行者としての信号無視は多々あるのだけど…やむを得ない理由とするのは今思うと無理がある。でも、その時には友人との関係性やらなにやらを総合的に考えて?考えが不足していたことは否定しないが、それなりに、納得してやったんだと思う。

30年以上経って罪の意識に苛まれるのだけれども、やむを得ない理由と言うとき、そこに僕は自由を放棄しているように感じるのだ。

自分が自由である限り、僕は僕の行動や現状に全責任を負う。氷河期世代であり、僕の人生はそれを根拠に納得感のある説明をすることもできなくも無い。だとしても、だ。それを認めてしまった途端に僕は自由を手放したことになる。

自己責任論に対して批判的な風潮があるけれども、自己責任論は多分、究極的には自由を担保する理屈だと思う。

じゃ、今度はどこまでが自分であるかという問題。

僕は、極めて強固なストレートヘアではあり、朝起きて寝癖がついていても2,3時間もあれば寝癖は消える。でも、寝癖はつくのだ。僕が寝癖をつけたいとは思っていないにもかかわらず、僕は、僕の髪の毛さえ自由にならない。ましてや最近は髪の毛に白いものが混ざって来てるし、ヒゲに関しては部分的に完全に白くなっている。僕が自由にできるのは自分という存在でも、部分的だ。

食欲、性欲、睡眠欲。全部それが生まれることに関して僕らは不自由だ。

この中でも、性欲は厄介だ。性欲満たすだけならきっと手段も、相手もなんでも良いはずなんだけど、実際はそうでもない。性欲自体は自由では無いけど、それを満たす手段やら相手やらには自由がある。ても、その自由にはいろいろな付帯条件があって、結局のところ因数分解すると、その条件の根拠も物理学ではないけど、何かしらの法則性を持っていて、個別具体的な例を挙げれば、僕は細い子よりも背の高いガッチリとまでは言わなくとも、いわゆる現代的なアイドルみたいな抱いたら壊してしまいそうな華奢な子よりも、昭和のプロレスラー体型である僕でも受け入れて貰えそうな子の方が好みである。

いや、自分の性癖を開示したいのでは無いけど、要するに、自分って単位でさえ、自由にできる範囲は限られていると言うことを言いたい。

その中での自由。

制限付きの自由。

僕らはさ、色んなこと学ぶけど、学んでいるのはきっと法則なんだと思う。法則には自由は無くて、条件さえ整えば、いついかなる時も同じ結果になるものだ。

それってつまりは自由ではないよね?

結局、僕らは言葉の世界に生きている限り、思考の視点で世界を見ている限り、自由ではなく、与えられた自由の世界を生きるしか無いのだと思う。

最低な想像だけれども。

魂だとか霊とか、生きていると言う状態では経験することができない世界を生きるというのは、制限付きの自由な世界を生きると言うことだと、僕の知的な、誰かに納得してもらえる世界観では言うことができる。

でもね、僕は理屈とか、法則とか、なんならそんな評価やら他者と言う存在やらも無視して、ただただ幸福な存在である自由があると信じてる。