現在地というとき、そこには来し方行く末が含まれる。だけどさ、本当にそうなのか?僕らは、今という点を振り返って線と認識し、そこにベクトルと言うか、方向性を見て行く末を予測してしまう。
つまり時間軸と空間軸を把握できて初めて僕らは現在地がわかると思っているけど、僕らが知覚できるのは限りなく現在に近い過去でしかなくて、厳密には似たような別の現在にしかおらず、僕らは現在にありながら知覚できるのは現在ではないと言える。
僕らに自由意志がないと言われる事がある。神経の伝達速度から考えてプロのピッチャーの球は偶然以外の理屈では説明がつかないと言う説が正しければ、ではあるけれど、同じ理由で僕らは極小までに範囲を狭めた現在には思考を通した判断はしておらず、ある種の条件反射の繰り返しになっているのだと思う。
クオンタイズを細かくしていけば行くほどに音楽が機械的になるように、人の行動も同様に時間軸を細かくしていけば、誰もが似たような気質や体質を持っていれば、機械的な、システム的な反応になるのだと思う。
そこに、人間性を見いだせるかどうかはまた別の話として、そのような事が事実だとして、僕はどうするのか?
僕は、このようなことが事実ではないと捉えようと思う。
それがたぶん僕の現在地で、例えそれが僕という個性が導き出した答えでなくとも、僕の世界は僕が望む様にする。
その望みでさえも、様々な反応の総合であり、そこに自由意志でなかったとしても、僕はそれが心地よいと思うのだ。