幸福のヒント?

僕による僕が幸福になるための、ヒント集にするつもりだけど、だいたい愚痴、ときどき妄想、たまに詩っぽいの

日常

約3年ぶりに、一週間連続でオフィスに出社した。

コロナが流行して以来、在宅勤務に切り替わり、途中、会社も変わったものの在宅勤務は継続していた。

なんか1週間も通えば慣れるもんだな、と、思った。何やかやで都内へ通うこと自体は別段特別なことではないのだけれど、久々であるということは、不安や面倒くささ、そして若干のワクワクを伴ってアドレナリンが出ているのか、初日は疲労は感じなかった。しかし、翌日以降は慣れない椅子や、久々に体験するパーソナルスペースに家族でも、恋人でも、医者でもない人の侵入にストレスを感じ、ここ最近感じたことのない疲労を感じた。田舎者故の人に疲れる、と言うか他人に見られると言うありもしないストレスを感じる、過剰な自意識に疲れた。だがそれも、三日目には慣れ、ストレスが無くなったわけではないのだろうけど、こんなもんかって適応しちゃうのだと思うが、意識は薄くなる。

そして、後半は日常になった。

 

僕らはきっと、日常に生き、そして飽きる。

 

年齢的な事は言いたくはないのだけれど、紛れもないオジサンとなった今は、若い頃に比べて、ワクワクするような非日常よりも、コントローラブルな日常の方を好む自分を自覚している。

 

身体もそうなんだけど、心とか精神とかもきっと普通とか恒常性とかって言う、なんて言うのが適切なのかはわからないけど、標準偏差?みたいな、発生した事象の中で標準を決めて、その周辺で上手くやるように調整しようとしている気がする。

 

人があからさまに壊れる時、多分、その人の精神や肉体のポテンシャルがその環境に対応出来る前に、その人の捉えた世界が、日常が、超えてしまった時に起きるんだろうなってわかった。

 

そう考えると、子供って多分、ずっと非日常に生きているだと思う。髭剃りする父親と緑色の肌のレプティリアンはきっと2歳児にとっては同じくらい異質な存在だと思う。ただ、髭剃りをしてない時の父親はレプティリアンに比べたらまだ身近で日常的な存在なんだと思う。

なんて言えば良いのかわからないけど、僕らは自意識さえコントロールできれば、完全に自由だ。でも、きっとその自意識は、コントローラブルなものではなくて、いろんなものの積み上げで、いつの間にか出来上がってしまった、それこそ考慮されることの少ない信仰の対象に似た、偶像みたいなものだ。偶像を信仰する偶像。推し活とかってのはそんなものを象徴するようなトレンドなんだろうね。

 

何を言いたいかって言うとさ、多分だけと、僕らは、僕ら人間ってさ、人間が信じている人間ってカテゴリがそもそもさファンタジーで、分かり合えるとか、理解し合えるとか、そんなありそうで無い、せめて7割くらい共通している程度の判断を絶対普遍の真理かの様に信じているだけなのだと思う。

 

じゃどうするのよ?って話だけどさ、ときどきで上手くやるしかないんじゃないかな?

 

毎日出社して、唯一僕の中で問題だったのは、週末に取っていた休肝日が無くなってしまった事だったのは、またいつか書きたいと思う。