幸福のヒント?

僕による僕が幸福になるための、ヒント集にするつもりだけど、だいたい愚痴、ときどき妄想、たまに詩っぽいの

生き急ぐ愚物

答えが欲しい。

いや、正確には、正解が欲しい。

 

文系か理系かって問われたら、僕は紛うことなきド文系なのだけれども、実は理系的な考え方をしていると思う。

 

そもそも、理系文系の区分は受験と言うか、学術分類でしかないし、理系だから文学を理解できないとか、文系だから計算が出来ないというものでもない。ただ、高校以降の学生生活で触れる考え方の違いは、その後の人生に大きな影響を与えることは確かだと思う。

 

理系と文系の大きな違いは、正解の有無だと思う。もちろん、文系とて正解はあるし、理系にだって同じ制約、つまりは「限られた条件下において」と言う制約が付いた上での正解だけれども、大雑把に言うと文系はこの制約そのものを問うのに対して、理系は既知の制約下で正解を問う学問なのだと思う。とんでもない例えだとは思うけど、文系はオープンワールドゲームでユーザーがゲーム性を見出すのに似ていて、理系はオープンワールドゲームのゲーム性のルールを解き明かして行くのに似ていると思う。

 

僕の欲する正解は、ある一定の価値観やルールが存在して初めて成り立つものだと思う。理系においては当たり前のことだと思うけど、前提条件がしっかり規定されて出される尤もらしい答えが正解だ。だから問いかけが厳密であればある程に正解を出すのは容易くなるのだけれど、世の中の多くのことは残念ながら、厳密さに欠く。だからこそ、多様性が、多様性を認めることが大事なんだろうけど、一方で共同体というのは、その規模を問わず何かしらの共通項が必要で、共通項を共有できてこそ初めて共同体が成り立ち、ある意味でメタ的な、幻想的な第三者視点、客観と言う1つとして厳密には等しくない公約数的な基準が生まれる。そして、その公約数的なものは往々にして意図的に作られる。

 

だからきっと、地球から銃声が消えない。誰もが平和を望んでいるはずなのにね。

 

あくまで私見ではあるのだけれど、昔の偉い人はこの矛盾に気付いていたのだと思う。清貧を是とする宗教や苦痛を快楽と感じるマゾヒスト、四公六民の税制に文句を言わない日本人。価値観の本質が相対的である上に、僕らが今しか生きられない存在であるクセに記憶という厄介な対象を持つつのだから、仕方のないことだけれども、僕らの正解は無数にある。そして、どの正解を選んだとしても、どうしたって後悔が付き纏う。それは、得られなかった、実現されなかった可能性は青天井の、それこそ無限の可能性があるから。

 

きっと絵に描いた餅が一番の美食なんだろう。画餅を夢見て餓鬼道の如きキリのないオリジナルな人の欲望は、最終的には自滅する。その大きさに自壊して改めて細かい原始的な欲に立ち返り、スクラップアンドビルドの繰り返し。

 

それでもなお、僕は正解が欲しい。

 

例えそれが画餅のように決して手に入らないものだとしてもね。