幸福のヒント?

僕による僕が幸福になるための、ヒント集にするつもりだけど、だいたい愚痴、ときどき妄想、たまに詩っぽいの

退屈と馬鹿

自分で言うのもなんだけれども、今の僕は、悪くない。

 

上も下も、見ればキリはないのだけれど、ふとした瞬間に、「ま、悪くないかな?」と思えるのだ。

 

良し悪しが、そもそも、相対的な価値観だから、良し悪しで語るときには何かしらの比較対象があるのだろうけど、僕が悪くないと思うときの比較対象は恐らく、過去の自分なんだと思う。

 

もちろん、他者と比べてしまうこともあるけど、どちらもやっぱりキリがなくて、統計的な平均値や中央値なんかとの比較にしても、結局のところ、自分に都合の良いように評価することに落ち着いて、他者との比較なんてのは、無駄に価値観を歪める結果にしかならないのではないかと思う。

 

きっと自分自身に対する評価なんて、神話や星座の物語のように、数多の事実から都合の良い事実を繋ぎ合わせて作ったストーリーに過ぎない。

 

だから、と繋げるには少し無理はあるのだけれども、大抵の場合、「今の」僕の人生は「悪くない」のだと思う。

 

だけれども、いや、それ故に、なんだろうけど、似たようなストーリーばかりの人生は、時代劇やド定番の物語のように、大雑把に見るとテンプレートで、飽きがくる。

 

特に、先週のように、普段の生活圏から外れて旅をすると、ルーティン化した日常には強い退屈を感じる。

 

散々、若い頃に無茶苦茶してて、後悔と共に、屈辱的な想いも、悔恨も、なんならただ幸せそうな無関係な人に対する殺意さえ覚えて、そんな経験をした上で、やっと手に入れたはずの今なのだけど、関数のグラフのように予測可能な未来に対して、そしてその未来を得るために必要な今の行動に対して、退屈を感じる。

 

でもさ、最近になってやっと分かったと言うか、自覚できたのだけれども、きっと僕らは譲れない最低限度の関数のグラフは維持しつつも、出来るだけ馬鹿なことが出来るマージンが幸福度に繋がるのでは無いだろうか?

 

退屈したときに馬鹿出来る余裕?

何もかもが、思い通りになったときに、人は幸せなのか?って問いに通じるテーマなんだろうけど、僕には真理のように思えてならない。

 

だからこそ、馬鹿なことするために、僕は頑張ろうと思うのだ。