幸福のヒント?

僕による僕が幸福になるための、ヒント集にするつもりだけど、だいたい愚痴、ときどき妄想、たまに詩っぽいの

生きる(僕が)

生きるって、主語が無いと、どこまでも広がってしまう。

 

なんかね、結局の所さ、自分ってモノが曖昧であるが故に、いろんな問題が起きているのだと、僕は思うのだ。

 

昨今、拡大自殺と言われるような事件が多発している。

 

ココ最近。コロナ騒動が始まって以来、だと思うのだけれど、いや、それ以前からか、でも、目立ったのはさこのコロナの狂騒からだと思うのだ。

 

そこにはさ、僕なりの仮説があって、コロナによる社会変化を理由にして、人はさ、納得しようとしているし、犯人達も、それを理由にする事で、自己正当化を、ある種の理由付けと言うか、エクスキューズを企図しているように思うのだよ。

 

コロナに関して言えばさ、もはや僕は風邪の一種だと思っている。いやさ、コロナの症状がさ最早風邪なのに何を騒いでいるのだ?って程には強硬には思わないのだけれども、よくよく考えてもらいたいのだよ。

 

今やさ、国際関係無しに日常さえ過ごす事は出来ない訳じゃない?で、世界の国毎に対策が違っていたら、世界からコロナは無くならないし、それを前提と考えるとさ、ゼロコロナなんて画餅も甚だしいと思うのだ。

 

この2,3年はさ、僕は在宅勤務だからってのもあるけど、風邪ひいたって人に殆ど出会わないのだ。

 

冬になれば、自分自身も含めてさ、風邪なんて当たり前だしさ、つまりはさ、それがきっとコロナに置き換わってるだけでしょ?

 

あのさ、テメェの正義を押し付け過ぎてはいませんか?

 

あんたの正義に自分の都合の良さ含まれてませんか?

 

いやね、人はさ結局の所、自分に都合の良い事を都合の良い様に捉えてさ、理論武装しているだけじゃね? 

 

それを僕は悪いとは思わない。

寧ろ、そうあるべきだと思うのだよ。

 

今ね、僕は普段は使わない私鉄に乗っている。

 

馴れない景色に、なんか興奮していてね、あぁ、世界は広いなって思うのだよ。

 

それってさ、きっと、自分に与えられる刺激の変化なんだと思う。

 

10代最後を僕はカナダのウィスラーで過ごした。

 

そこは当然だけれども、日本とも、僕が今生活している実家とも違っていて、二十代中半から一人暮らしをした。それも、やっぱり僕が子供の頃に経験した世界とは違う世界だった。

 

そこはさ、僕の普段の正義が通用しない世界だって、なんかわかったんだよね。

 

僕自身は、連続した僕なのだけれども、空間が変わると、僕もさ変わって、恐らく、いやね、確信に近いのだけれど、要はさ、自分を自覚できるのは、それまでの自分との違いが発生した時で、それがなければ、自分は肥大化してしまい、世界だと勘違いしてしまうのではないかな?

 

だからだよ、僕は、僕を生きたいと願うのだ。

 

あのね、僕らはさ、正しさとか、正義とか、ポジティブな“良いもの“、普遍的な、自分を外から規定してくれる何かを求めがちだけれども、絶対普遍な良し悪しなんてスケールがそもそも、存在しなくて、良し悪しはドグマでしかないのさ。

 

だとしたらだよ、僕は僕なりに、自分が幸せになる為に、世界の幸せを願って良いのではないのかな?

 

それが例え他人の正義や理屈を否定するものであってもさ。

 

だって僕は、僕以外になれないし、僕が幸福であることが何よりも大事なんだ。でも、その僕は、僕の周りにいる人が作っているから、だから僕は、僕の欲望に素直になれないのだと思うのだ。

 

イイオンナ抱きたいし

世界から評価されたいし

いつだって気持ち良く

楽しく

幸せでありたいよ

 

そして、僕はなんか意味があって欲しい。

 

僕が、世界にとって、この僕の世界にとって意味を持つ、いや、それは矛盾しているのだけれど、こう書いている段階で意味はあるのだよ。

 

伝記にならなくたって、人から称賛されなくったって、僕は僕として生きていて、それは死ぬまで続く。

 

それだけの事なんだ、生きるって。

 

だったらさ、バランス上手いこととって生きて行くのが楽しいんでない?

 

ってのを、Switchのマイクラでチートコマンド有効にした後に楽しくなくなった僕が語って見たよ。