民主主義は危機を迎えていると思うよ。
知識が、世界が同じでなければ対話さえままならない。
インターネットがもたらしたのは、知へのアクセスの容易さだと思う。その結果、多くのチャンスが生まれ、同時に多くの世界が生まれた。
進化論を認めない人達が、今でも一定数いる。進化論に関しては、僕らが自分の感覚では確認はできないし、各種のエビデンスを積み上げた結果、信じているに過ぎない。
自分の感覚を信じるにしても、感覚を通して得られる情報がそもそも同じではないし、その評価は結果として同じになるかもだけど、結局のところ
一人ひとり辿る道まで全く一緒ってのは難しいだろう。
すると、当然、人の数だけ世界が生まれ、僕らは不安を覚えながら共通項を見つけ、それを世界と呼んで生きている。
ネットの世界は、僕のブラウザにはエッチな広告がたくさん表示されるように、その人に最適なものをレコメンドしてくれる。すると、世界は先鋭化して確実なエビデンスを示してくれる。あ、いや、あれだよ僕のブラウザにエッチな広告が表示されるのが先鋭化するのではなくて、結局、自分の好みの情報を提案してくれるからだよ。
そうなると、人の見ている世界は多数存在することになり、違う世界をもとに対話した所で、同意を得られないだろうし、他の世界があることさえ意識することなく対話したって、相手を認めなければ平行線をたどるしかないだろうし、分断が生まれる。
きっとそれがアメリカの、民主主義の混乱なんだと思う。自分の世界が正しいと他人の世界は間違いなんだ。
不安かもだけど、違う世界があることを認めて、共通するところで対話しなければならないと思うのだよ。
殴り合いなら、今でも僕は6割の人間に勝てるだろうし、それを保険として生きているけど、それを手段とした瞬間に、4割の人には逆らえなくなる。
殴り合いって言う暴力から開放され、対話で互いに満足まで行かないまでも受け入れられる何かを得るのが民主主義なんじゃないだろうか、と僕は思うのだ。
だとしたら、僕らはきっと不安定な世界の中で、自分の信じる世界と他人の信じる世界との間に妥協点を見出してゆくべきなんだと思うんだね。
そうなると、多様性を認めながらも、知的レベルってのは共通であるべきだと思う。それは知識の量ではなくて、アクセス方法を共通化したり機会を平等にしたりって言う努力が必要なんだと思うのだ。