僕らが世界って言うとき、きっとその言葉が意味する世界は人の数ほどあってさ、僕らが生きている世界は、きっと、物理的な距離で言ったら、現実的に住んでいる国のサイズにもよるけど、大きくてもさ、せいぜい数千kmの範囲だし、僕にいたっては今は最近だと、数十Kmが僕の世界だと思うのだ。
オリンピックが遠いどこかの都市で開かれているよりは、今年のオリンピックは身近に感じるし、メダルを取って、どこか引っかかる選手がいたら、その国を調べたりしたら、きっと世界は広がる。
でもさ、ちょっと不安があってね、僕はその選手の国や時間的な差を、あ、時間て歴史的な時間ね、1つの連続した地平として見るのだけど、今の時代、こういう想像力もインスタントに、オブジェクティブに、時間や距離のない空間にフワフワしている個の存在として捉えてはいまいか?
辛坊二郎さんが今太平洋を往復している。
海は日本からどこへでも繋がっていてさ、そこには、日が昇り、墜ちることでしか時間を感じることができない世界があるのだと思う。
毎日、あ、テレビでこの人が出てるから今日は何曜日で、今、何時でって言う形での世界との繋がり方ではなくて、太陽とのつながりで時間を感じる。そこには、海だから地平って言うのはアレだけど、アナログな、割り切れない連続性があるのだと思う。
世界をどう捉えるかって正解はきっと無くてさ、正解も現実もたくさんあってさ、それぞれが我こそは!って主張しているのが、現実なんだろな。
だとしたらだよ、平等とか公平とかってのはさ、人が頑張る為に必要な、神様みたいな存在なんじゃないかな?
と、思ったとか思わなかったとか。