幸福のヒント?

僕による僕が幸福になるための、ヒント集にするつもりだけど、だいたい愚痴、ときどき妄想、たまに詩っぽいの

峠の釜めし


f:id:monknight:20220828185204j:image

昔、まだ長野新幹線もなく、特急あさまが長野へ行く主要経路だった頃、父の実家のある松代へ行くのが毎年夏の恒例行事だった。

車で行くときも、特急あさまに乗って行くときも横川の付近で食べる荻野屋の釜飯は僕にとって、夏の楽しみの一つで、中学生になる頃までは毎年食べていたような気がする。

偏食気味の僕には珍しく、残さない弁当って事で僕の好物として認定され、父が一人で長野へ行った時の土産も高確率で釜飯だった。

当時の陶器製の釜に入った弁当は、中学生になりナマイキざかりの僕でも、心が浮き立つような非日常性の強い弁当で、買って来てくれたときには素直に喜んでいたような記憶がある。

祖父が亡くなり、祖母が亡くなった頃から、毎年の帰省はなくなり、いつの間にかすっかり疎遠になり、釜飯も食べる機会が無くなった。

最後に長野へ行ったのはいつだったか?

先々週に、富山からの帰りに通過はしたけど、それより前となると、学生時代にどんな流れだったかは忘れたけれど、高校時代の友人たちと無計画な旅で白馬の温泉に行ったキリだったと思う。その時も釜飯は食べていない気がする。

まぁ、わざわざ釜飯食うために横川まで行くかって言うと、そこまで魅力のあるものでも無い。

今日も長野に行ったわけではないのだけれど、高崎で釜飯を食べた。そうしたら、いろんな記憶が蘇って来た。

昔ながらの陶器の釜に入ったご飯とオカズ達。僕の記憶が正しければ、ご飯は鳥五目だったような気がするのだけれど、今日食べたのは五目ではなく、少し味のついたご飯だった。それでも、僕の中に眠っていた記憶を呼び覚ますのには十分で、一口噛みしめる度に、特急あさまで横川駅の停車時間に釜飯を買いに行ってくれた父を待っていたときの焦燥感や、車で行った時に眠い目をこすりつつ食べた釜飯の味を思い出していた。

 

なんかね、いままで、インスタやTwitterに飯の写真アップする心理がわからなかったのだけれども、最近なんかわかって来た気がする。

 

食べ物って、記憶を多く含んでる。

だから人は、食べ物を記録し、それを振り返りたいのだろう。

 

ん〜ハイパーハードボイルドグルメリポートに毒されてるな(笑)

最近、ポッドキャストで聞いてるんだよね。