42年生きていてさ、初めて年末のアメ横で買い物した。あ〜なるほどって思った。
今もって、行きたいとか、思わないんだけどさ、基本効率厨だから、何を好んで人混みの中に行かねばならぬのだって思いは、行って楽しんで来た今でも思うところなんだ。
それでも、僕が行った理由はさ、いくつかあるんだけど、結局の所、食わず嫌いの克服なんだろうね。でも、語れる理由は、いくつかあるんだ。
まず、卑近な理由から言うと、末期がんの父が珍しく、アメ横の買い物に興味を示して、何処に出かけるとも言わず、休みの日には家にいない僕にお使いを頼んだってのが、第1の理由。
でも、根本にあるのは、休みの日には、電車に乗って酒を飲むくらいしかレジャーが無い僕には行き先はどこでも良くて、なにか目的を与えてもらえるのは大歓迎だったってのもある。
で、2つ目?の理由としてはさ、多分、人恋しかったんだろうね。
毎朝さ、知らないオッサンやたまに運良く綺麗なオネイサンと密着する通勤電車。僕の、人生の1/3位は、毎朝経験してたんではないかな?
高校から都内の高校だったんで、3年間は卒業できる程度に毎朝満員電車に乗っていた。大学に行った時は、ホントダメなんだけど、朝から授業がある時だけは満員電車だった。
就職したらさ、毎日で、そこに嫌気さして、一人暮らしを始めて、色々あって子供部屋オジサンになったのだけれど、子供部屋オジサンになってからしばらくは通勤してたさ。
で、在宅勤務になった訳。コロナ云々の話もあるけど、きっと僕らはさ、わかっちゃった、通勤しなくても事足りるんだって。
だから、多分、僕らはさもう戻れない。元の世界には。
そう考えるとさ、満員電車みたいな混雑具合の年末のアメ横って貴重なんだってわかった。
できたら愛する人に抱きしめてもらいたい。
でも、何故かそれは歳をとって来ると、ハードルが高くてさ。多分、今だって、母や父を抱きしめたら、それだけで幸福な気持ちになるんだろうなって思ってはいるのだけど、日本の文化なんだか、僕の思い込みなんだかは知らないけど、ハードルが異様に高い。
愛する人を抱きしめるのに、何故他人の目を気にするのかわからないけど、でも、気にしちゃうんだよね。
だから、きっと僕はさ、父が死んだときに、初めて、物心ついて、記憶のある限りにおいて、初めて抱き締められるんだと思う。
抱きしめなくともわかる程に、やせ細った父。もっと積極的に愛情表現ができれば、良いとは思うのだけれど、それが出来ないのはなぜだろうか?
もう70代後半の父だ、いつ死んだっておかしくはない。なのに、僕がそうする事で、父の死が確定してしまいそうで、安心して死んでもらうために、僕にできる他のことがあるんじゃないかって思うのだよ。
で、思ったんだ。多分、僕がアメ横を楽しめたのは、人のぬくもりを思い出したんだろうな。
効率厨ではあるけど、いや、効率だからこそ、僕はさ、今現在の自分の行動に理由を求めてしまう。
でもね、きっと僕らの行動の殆どは理由なんて無くてさ、単にそうしたかったからなんだろうよ。
だって動物だもん。
だからさ、あまり考え過ぎるのは良くないなって思った。
アメ横の雑踏。イヤホンの外から聞こえてくる世間の声。真っ直ぐ歩けない人集り。僕は、そこで、確かに存在していてさ、それを心地よいと感じたんだよ。