事の本質は、サイゼリアで満足しているか、否かではなくて、多くの人が満足できる食事に対して払う対価が一部の人にとっては安く、それがマウンティングに使われていることなんだと思う。そもそも論で言えば、そんな価値判断を創り出してしまうところに、僕は大きな問題を感じてしまう。だってそれは、物差しで物差しを測るような論理的には整合性はあるけど、なんの意味もない事だから。
サイゼリアを安いと感じるのは、値段以上の味やサービスを感じる人だからであって、必ずしも、全ての人に安いと感じるものではないだろう。価値観なんて人それぞれだ。
命が助かるなら医療費百万円が安いと感じる人もいれば、1万円だって高く感じる人もいる。要するに、認める価値と値段というのは、それぞれの価値観と世間的に通用している値付け=価値判断とのギャップだ。つまり、昭和時代のヤンキーが子犬を拾うと好意的に評価され、真面目に生きてきた人がたった一度の過失で何もかもを失うってのと同じで、背景があって、成り立つ価値判断なのだと思う。
今日みたいなクソ暑いランチ時に、1時間外で待って食べる高級イタリアンと回転の早いサイゼリアで10分待って食べるのとはどちらが美味しく感じるだろうか?
事の始まりはデートでサイゼリア使って喜ぶ彼女がなんたらって話だったと思う。
ど~でも良くないか?
年収で言えば決して高くは無いし、デートもここ十年、うわ、マジか…自分でも引くけど、事実、ここ十年デートすらしてないが、こう暑いとサイゼリアの方が僕は嬉しい。相手はどう思うかわからないけどね。
相手が喜んでくれるなら、出来るだけの事はしたいけど、そもそもご馳走するのが前提なら安ければ安い程に嬉しいし、それで尚且美味しいなら素晴らしくない?毎回毎回ランチに一万円かけられたら、良いけど、そんな稼ぎは無いし、あったとしてもランチに一万円かけることを求める人を僕は好きにはなれないと思う。
ん〜なんかね、クラスタ化が激しいんだろうね。村社会だよね。