僕はさ、少し、と言っても、10数年前からなのだけれども、なんとなく世界のの問題点は価値判断が相対的なところにあるのだと思い込んでいる。
話題のグレタさんの話もそうだけどさ、立場や価値観の相対化によって答えは変わって来るものが多すぎるんだよ。
彼女の提起している問題自体は、老若男女、富者も貧者も、関わる問題で、地球上の誰一人として、他人事で片付けて良い問題では無い。
たださ、立場によって結論は異なる。
彼女が彼女が望む方法で移動移動するのに出される二酸化炭素と彼女が自分の信念を曲げて移動した時の二酸化炭素量を比較してどうこう言う人がいるけど、彼女はそもそもそう言う人ではないじゃない?
彼女の役割は彼女自身が望んたものでは無く、別なものになっちゃってる。ジャンヌ・ダルクだよね。
ジャンヌ・ダルクだって、きっと同じつたと思うんだ。イコンとして利用されていたんだと思うよ。
情報が溢れて、情報に対するクオンタイズが自由であればある程に、僕らの世界は混乱する。
人を殴った時に感じる、高揚感から表情が緩んだのを見て、子供が罪を犯そうとしているのを止めようとした暴力が、抑止行為でさえ、体罰やら変態的嗜好と判断される。ま、その逆も然りなんだけどね。
アクセルの踏み間違いで人を殺してしまった高齢者と、首里城の防火設備を排除した判断との間には、どれほどの罪の重さの差があるのだろうか?
青汁王子と脱税芸人とソフトバンクグループの罪の重さに差があるのだろうか?
燃え落ちる首里城に悲しさを覚えつつ、美しさを感じてしまった罪な僕への戒めとして。