幸福のヒント?

僕による僕が幸福になるための、ヒント集にするつもりだけど、だいたい愚痴、ときどき妄想、たまに詩っぽいの

プロセスラバー

予てより、天才とは正しい努力を疎まず、楽しんで、いや、それどころか愛している人なのだと思っている。

 

誰しも、きっと、結果を求め行動を決定している。少なくとも僕はそうだ。お金を得るために仕事もしているし、仕事での評価を高める為に勉強だってする。時には下らないと思いながらも、ミーティングに参加してるし、心にもないおべっかだって使う。

 

その一方で、身体が求める欲求に従って、決定される行動と言うのもあって、お腹が空いたから食べたり、疲れたから寝たり、ムラムラして…はいいか。

 

で、結局のところ人と違う結果を出すには、もちろん最初から求めていた結果が違うって事もあるけど、多くの場合、アプローチの違いと、結果が出るまでのプロセスに対する愛の大きさの違いのような気がするのだ。

 

大した経験も無く例にとってしまい、恐縮ではあるのだけれども、野球におけるバッティングがわかり易いのだと思う。

 

経験ある方はわかると思うのだけれども、バッティングは筋力じゃない。もちろん筋力があった方が有利なことには異存は無いが、それ以上に、如何にバットの芯で球を捉えるか、要するにバットコントロールが大事なのだと思う。

 

バットの芯で球を捉えると、驚くほどに抵抗を感じずに、球は飛んで行く。だか、芯を外れると、面白いほどにハッキリと、振り抜くのにも苦労するような反発を感じる。

 

多分、物理学的に分析すれば当たり前に、向かって来る球のエネルギーに対して振り下ろされるバットのある地点での迎撃が勝っていることがわかるのだろうけど、バットを振っているこちらにしたら、同じ力で振っているのに、この違いは何なのかと驚く様な差がある。

 

だからきっと、プロは素振りをするときにはのんべんだらりと回数をこなすだけの素振りでは無くて、自分の思い通りにバットをコントロールする為の練習として素振りをしているのではないだろうか。

 

僕が小学校のときにやっていた少年野球での素振りは、バットを振る筋力を鍛えるだけの素振りでしかなかった。

 

でも、当時の僕にこのことを理解するだけの賢さがあればきっと、もっと楽しんで素振りをできたのではないかと思う。

 

シーシュポスの岩ってギリシャ神話だっけ?

カミュのエッセイで読んだのだけれど、もう内容も忘れてしまっていてうろ覚えだが、確か神話の部分は、英雄シーシュポスはなんかの罪で、地獄で山に大きな石を運び、その岩は頂上に運び終えると忽ち落下してゆき、シーシュポスは永遠に岩を運ぶと言う責苦を負っているって感じの話だったと思う。

 

多分、僕が少年野球の時にやっていた「あと何回」ってタイプの素振りはシーシュポスの岩と同じだろう。シーシュポスに比べたら終わりの設定があるだけマシなんだけど。そこには、意味はなく、あったとしても、筋力をつけるだけの結果にしか繋がらなかった。でも、それでも、筋力の無かった僕には身体が作りていく楽しみがあったと思う。そして多分、大人となり、93kgにもなった今の僕には、

ダイエットとして効果を感じられれば楽しめるものだと思う。だけれども、素振りをする本質的な目的が、バットコントロールの向上であるとしたら、そもそもプロセスたる素振りは、非効率的ななされ方で実施されてしまい、且つダイエットとしても決して効率的とは言えないものだと思う。だとしたら、僕が素振りをする理由は目的云々は抜きにして、バットを振るって言う行為そのものに楽しみを見出していなければ、とても続けるどころか、やろうとも思えない代物になる。

 

きっと、世の中の多くのプロセスがそう言うものなのだと思う。

 

食事が栄養補給の為ならば、カロリーメイトで充分で、睡眠が身体的な休息に必要ならば、睡眠薬でコントロールすればよく、セックスが子孫繁栄のためだけにあるならば、試験管で事足りる。

 

だから何だって話なのだけれどもさ、もっと言えばある種の自己否定にもなるのだけれども、考え過ぎるなって事だと思う。

 

もちろん考えて、限りあるいろんなリソースを有効活用するのには考えるのは大事なんだけれども、それ以上に、楽しいって大事なんだと思うんだよね。でないとさ、僕らの人生ってシーシュポスの神話になっちゃうからさ。