幸福のヒント?

僕による僕が幸福になるための、ヒント集にするつもりだけど、だいたい愚痴、ときどき妄想、たまに詩っぽいの

自我の育て方

塾の先生をしている頃から感じてはいたことなのだけれど、大人は如何に多くの嘘を子供につくことか。

 

やれ、正直であれ、正しくいろ、人に優しく、他人に迷惑を掛けるな、等々。それを口にする瞬間には、その想いには、嘘は無いのだろうけど、結果として嘘になってしまう多くの言葉がある。

 

子どもたちは、そんな大人たちの悪意のない嘘に戸惑いながらも、世界を知り、その世界の中で自分自身を形作って行く。そして、その完成形は43歳児となった今、僕には見えていない。ただただ、僕にわかっていることは、完成しないことがより完成に近付くどうしようもない矛盾を孕んだ、逆柱のようなカッコ付きの完成を目指したほうが良いんだろうなって感触だけだ。

 

誰からだって褒められたいし、誰からも愛されたい、いや、違うな、誰からも何も求められないならば愛されたいってのが正解だろう。だからこそ、自分が愛せる、求められて応えたいと思える人たちを、極めて個人的な世界の構成員として、人は、自家を育ててゆくのだと思う。

 

そしてある程度歳をとり、あらかた経験したと思うと、途端に、その世界こそがworldって勘違いをしてしまうし、その世界に固執する。

 

そうならない為に、僕らはきっと、メタ的な自分を育てなければならない。第三者視点。

 

これは、文法的な三人称視点ではなくて、オカルト的な言い方をすれば世界意志と言うか、ある意味で信心深い言い方をすれば神?

 

主観から見た世界の不明点を、その人の主観による想像で補い、擬似的な世界やら神の視点を創り出して僕らはそこから見えるものを自分の感情で評価している。

 

そう考えるとさ、唯一絶対の神様ってのはいたとしても、その評価は人の数だけあって、八百万の神々がその評価や側面の切出しって言われたらなんか納得しちゃう。

 

見えてることや、起きている物理的な現象に対して僕らの感覚器官は同じ刺激を受けたとしても、ほんの数ミリ立ち位置が違っただけでも、評価も違ってくるのだろうし、感じ方も相対的なもの。

 

そう考えるとさ、きっと、そもそも論で唯一絶対の神の存在証明も、完全なるメタ認知とかも、多分無理で、僕らにできるのは神やらメタ認知的な存在を意識して、それに自分を近付けて行くことなのではないだろうか?

 

いや、多分だけれども、これは自然と行える事で、要はさ、その外的存在に対して、どれだけ自分を近付けて行くかってのと同時に、その存在さえもちゃんと育てていかなくてはならないのでは無いかと、思ったのだよ。

 

なんでこんなことを思ったのかって?そりゃあれだよ、甥っ子が来るので、甥っ子用のらくがき帳やクレヨンなんかを探しつつ、こんなことを思ったんだよ。

 

暇人って言うなよ?(笑)