子どもたちを相手にしていた9年間ってのは、ある意味においては僕にとって非常に居心地の良い場所であり、立場だった。
多くの子どもたちが抱える悩み。
何をしたいのかが分からない
そんな青臭い悩みを、共有できる仲間に事欠かなったからね。
大抵のことは人並みにできる。
そんな人間でまだマシだった。大抵のことが人並み以上にできていたら、きっと僕はこの世界の嘘に押し潰されていた。
いろんな本や立派な大人たちは言う。
「人は平等だ」
ならお前のその鼻の高さを俺に分けてくれよ!
平等ではないよね。
少なくとも僕らが期待する平等では無い。
ってか諭吉さんが通貨の最高単位に印刷されてる国で、平等を唱えて見るってのは、カメハメハと叫んで、ポーズとった事のある大人40のトラウマをくすぐるくらいの黒歴史を抉る行為ではないだろうか?
人生は実にくだらない。
書き残され、伝承され、歪められる様な生き方になんの意味がある?
だったら思うように生きて見ろよと、人は言う。
だがしかし、どう生きたらいいかわかんねぇって言うね。
以前のエントリでも触れたかもしれないけど、究極的な一般てのは、おそらく、きっとプラトンの言うところのイデアなんだろうね。
現代日本に生まれていたらきっと、歴史的なライトノベル作家だったろうプラトンの言うイデアはきっと、それを知覚でき、かつ好意的に評価できる最大公約数なんだろな。
80億からいる人類、さらに多くの比較可能な存在。それらの最大公約数は結局、1なんだろうね。
そう思っちゃうと、僕らは自分のやりたいことをやってりゃ良いって乱暴な結論に至る。
僕らは、人生に疲れ始めた世代はさ、もしかしたら若い世代に、諦め切らずに折り合いつけて、生きてゆく術を教えるべきじゃないのかね?
今の子どもたちは賢いよ。僕らの、歳食った奴らの嘘は嗅ぎ付ける。
あぁ、一緒か。
いつの時代も。
若い奴らは大人たちの嘘嗅ぎ分けてたか。
ならおっさん共は嘘つき続けるしかないべ?そうしないとさ、僕らがした努力が、可哀想だ。そしてきっと、物分りの良い大人だけになっちゃったら、子どもたちは、今を変えてくれるモチベーション作れないよ。
ロミオとジュリエットは悲恋だからこそ燃え上がったのと同じで、僕らには倒すべき悪が必要なんだよ。
自分が正しいと実感するためのね。
ならさ、僕らおっさんが、なってやるべきじゃね?間違った事言いまくろうよ。古い価値観押し付けようよ!子供たちが幸せならそれで良いんじゃない?
ただ、僕らの判断では無く彼らの基準でさ。
こうして、多分世界って変わってきたんだろう。今から20年も前に、僕がやってたように、本を読む学ランの、多分、高校生であろうおっさんぽい子を目の前に。