かつて、学生だったころ、僕は哲学を学んで思ったのだった。
究極的に普遍的な事は、究極的に特異なことなんだと。もはや、かなり怪しげな知識だけど、make no differenceってのを僕は意味がないって訳してしまうのだ。
永遠普遍の真理を求めるのは、結局のところ、それはさ、プラトンがもう言っていることなんだけどね。善のイデアってのがそれだと思う。
そして、それを起点にsollenって思い、そこにコミットしようと努力すると、きっと人は削られていくのだと思う。
誰かに認められないと、存在すら危うい、そんな世界に、そこに僕らは、コミットしようとするからさ、だから無理が出る。
だから、僕らはみんな、ある意味で誰かに生かされている。それ自体は悪いとは僕は思って無くてさ、それでも、良いのだけど、それだけではいけないと言うか、それだけだと、きっとつまらないと思うのだ。
なんかさ、僕の価値観なんだろうけど、結局のところ、自分って範囲で、いわゆる自我って言われている範囲で言えば、…
ん〜面倒くさい(笑)良いや、もう、僕は僕が、楽しい世界に生きていたいよ。
つまりそれはさ、要するにバイタリティの問題、物理的なエネルギーなのかわからないけど、なんかさ、誰かに認めてもらうことって大事かい?僕らは僕らの生きたいように生きて行けば良くないかい?
きっとだけどさ、僕らは必死に生きているって実感を抱きながらさ、生命として生きているって状態を確保しながら最大限に他人から認められる為になんかしてるんじゃない?
子供のいない僕だからかもしれないけどさ、なんか自分以外に生きる意味を求めるってのは歴史的には幸福なことなんだろうな。