恐らくだけど、人は言葉を得てからと言うもの、この救われたい症候群にかかっているのだと思う。
犬や猫が、その文化的な価値観として、美醜の感覚があるかは僕にはわからないのだが、人はきっと言葉を持ってしまったが故に、後天的な感覚としての文化、五感で感じ取られる世界に「こうあるべきだ」というプラトンの唱えたイデアに対してとカントの言うところのsollen的な姿勢で臨んでしまっているのだ。
winds of godという舞台があった。神風特攻隊のお話。今の、平成も30年になろうかっていう、この時代に、神風特攻隊の気持ちを正確に想像し、共有することなど無理なのだ。
今の僕らから見たら、きっと、そう、悲しいけど、命をかける事の出来る価値観を持ってる彼らに、軽く嫉妬して、強要され無い事に安堵して、きっと複雑な想いを抱いてしまうのだと思う。
でもきっと、これって近年、近代に始まったことでは無くて、恐らくは、人が言葉を得てから、常にレベルの差はあっても発生している問題なのだと思う。
人は仏教で言うところの業、キリスト教で言うところの原罪、人が作り上げた、文化的な価値観に相反する動物的必然をどのように扱うかに悩み、苦しみ、人の考える美しさと、ホモサピエンスが感じる美しさの差を科学とか理論とかって言われる理屈で説明しようとしている。
きっと人類は、これを、この動物と人間の差を埋められずにいるんだ。
だから、思考停止して、信じたがる。
僕を狂信者にした恋も、振り返ればただただカタルシスを感じさせるエピソードでしかなくて、自分のあまりにも大きくなり過ぎた人間性が、僕に見せる僕を業から、原罪から救ってくれる新たな価値の模倣だった。
って、多分突き詰めると宗教なんてのは、ここんとこの折り合いを上手くつけた、ある種の仮説なんだろうね。
帰りの電車で飲むチューハイが2本になった日にw