幸福のヒント?

僕による僕が幸福になるための、ヒント集にするつもりだけど、だいたい愚痴、ときどき妄想、たまに詩っぽいの

思いついたこと

度々、僕は目標とか目的が行くへ不明になる。

今の僕は、日々何となく過ごし、何となく生きていて、身を震わす怒りや、身を切るような痛みもない。いやもしかしたら、そんなもの見渡せば僕の周りにいくらでもあるんだろうけど、その怒りや痛みは僕のものではないし、僕は暖かい毛布に包まってそれに目を瞑っている。過去を振り返ってみても、20代のころなんかは仕事や人間関係で、自分がやらなければならないと思っていたことが沢山あって、それらをこなしていたらいつの間にか30代間近になってて、惑溺した恋に破れて冷静になった。いや、それさえも冷静になったのではなく、その恋に使っていた時間がパッと消えて出来た時間に何をして良いのかわからなくなって、初めて「考えた」のだと思う。

 

そんな僕がこうしてPCの前に座り、タイピングしてこの記事を書いているのは、ここ数年使ているAMAZON Kindle Fireのイヤホンジャックに挿したイヤホンがポッキリ中折れし、音が聞こえない単なる読書端末になってしまったことに起因している。

 

ま、つまり読書に飽きたからこうして文章を考えているのだと思う。

 

こういう状況になってみて、初めて僕は気づけるのだ、僕らを楽しませてくれるものは周りにいくらでもあって、飽きる暇なく次から次へと新しい「時間潰し」を与えてくれる。そして、僕らはそれらに飽きたり、それらを得られなくなったとき、やっとこんな風に「考える」時間が得られるのだろうと思う。それが良いこととも、悪いこととも判断できないのだけれど、ただ少なくともこう考えることさえ、恐らく「娯楽」なのだと思う。

 

問題は、この「娯楽」が「娯楽」でなくなる時なんだろうな。

 

こうして、考えて、そこで得た何かしらがその後の行動に変化をもたらすのは、当然のことだろうし、考えることが「娯楽」足り得るのはここにあると思う。でも、それによって行動が生まれ、その行動によてまた考える時間が無くなってゆく。そして、この考えによって生まれた行動による生活習慣がいつの日にか破綻してまた考える。

 

そんなことを繰り返している。

学ばないなぁ。

いや、学んでいるのかな?

 

学んだ上でこんな生き方をしていて、たまにこんな風にそれを省みてチェックしているのだとしたら、それほど悲観的にならなくても良いことなのかもしれない。ただ、要するにそのスパンっていうか、期間っていうか、周期?若いころなんかはもっと短いスパンでこんなことをしていたような気がする。年をとって来て、そのスパンが長くなったのは、いろいろ試してみた結果そうなっているのかな?そうして、人は最終的に何かしらの至高の習慣に行き着けるものなのだろうか?

 

なんか僕に関しては言えば、そうとも言えない気がしている。

 

例えば、若いころは居酒屋に行って、最初にサラダを頼む女子のオーダー順序が理解できなかった。僕は、唐揚げ、軟骨揚げ、ピザ、フライドポテト、鉄板焼きの肉・・・Etcとにかく野菜などは、オーダーしたものの添え物程度で十分だと思っていたが、今やサラダ、豆腐、刺身、とにかく脂っこいものを頼まなくなってきた。年のせいと言ってしまえばそれまでなんだろうけど、好みの変化というか価値観の変化なのだと思う。要するに脂っこいダケのものに飽きたのではないかと思う。今でも脂っこいものは、好きと言う程ではないのだけれども、野菜と並べられたら最初に箸が出るし、ただ野菜を食べることで、肉も野菜もおいしくなると言うことに気づき、その比率が変化したに過ぎないのではないかと思うのだ。

 

その理屈で行くと、やがてまた肉への志向が高まり、20代のころのようにまた脂っこいものに傾く日も来るのではないかと思うのだ。

 

なんか西洋的な直線史観とアジア的な円形史観と言うか、その狭間で僕らは生きているというか、きっと僕らの中には何か直線的に目指す志向があるのだけど、そこにたどり着くには価値観の輪廻を経なければたどり着けないというような、そんな人生の不思議さに気づいたと言うか思いついた日曜日の午後でした。

 

まぁ、そうね、僕が自分自身のやりたいようにした生きて行けない人だから、過去に記事のカテゴライズしていたのを思い出してはいるけど、それをしないみたいな無精な人だから、次の記事では全く逆のことを書く可能性もあるのですが、とりあえずこの30分くらいの時間を無駄にしないためにも、このまま公開しちゃいます!