幸福のヒント?

僕による僕が幸福になるための、ヒント集にするつもりだけど、だいたい愚痴、ときどき妄想、たまに詩っぽいの

明けちゃいましておめでとうございます

とりあえず、明けましておめでとうございます。

でも、本音を言えば、何がめでたいのかが僕には、未だにわかっていないような気がする。僕の都合を考えずに、無情にも年は明け、平成は終わろうとしているし、ここ10年ばかり、ただ単にお年玉を要求され、仕事が休みになるという他に何ら楽しみもない時期のどこにめでたさを見いだせば良いのだろうか。

 

一年の計は元旦にあり、な~んて言うが、中年となった僕は、いや僕自身の問題なのかもしれないけれども、「計」というものが、より現実臭い、夢やら希望やらと言った、胸弾むようなものではなくて、粛々とこなしてゆくような数理と法則に裏打ちされた、まさに計画と言えるようなものになって来ている。

いや、多分元からこの言葉の意味はそうなんだと思う。ただ若いころや子供だったころは、この言葉を単に「夢を見る」みたいな言葉だと思っていたように思う。

子供のころのお正月は、もらったお年玉の使い道ぐらいしか元旦には考えなかった。「あのおじさんには、〇〇円もらえるから、合計で〇〇円になる。そしたら〇〇と〇〇を買おう」なんて言う、前提になるものも不確定な状態で立てる「計」だったし、年末年始のテレビも「夢」やら「希望」やらと言った、イメージばかり良い言葉に溢れていて、寧ろ今感じてる「計」とは逆の根拠のない、ただただワクワクするような夢物語を夢想することだと思っていた。

そこからすると、本来の言葉の意味通りに、「計」を考えられるようになたのは、成長したと言えるのかも知れない。同時に、薄々とではあるけど、何がめでたいのかもわかって来たような気もするのだ。

この年になると、だんだんと人の死に目に出会うことが多くなって来ている。年賀状などという制度からは早々に退散して久しいが、それでも年々お世話になった人や友人の訃報に年末年始に触れる機会が多くある。お葬式とかには参加するほどではないけれども、機械的に年賀状を送り続けてくれていた人からの喪中はがきや、なんとなく続いていた古い仲間の忘年会・新年会で知らされる。きっと、生きてまた新しい年を迎えられたことが「めでたい」のだろうと思う。

また、友人たちの子供に配るお年玉の額が年々高額になっているのも、つまりは恙なく子供たちが成長していることの表れでもあるし、僕にとっては痛いが、めでたいことなのだとも思う。

ただ、冒頭に述べたように僕にとって、元旦にある「計」は夢や希望といったものではなくて、厳密な計画なのだ。収入がいくらって、支出がいくら、残金がいくらっていうような数字の問題なのである。

だからお願いだ。

これ以上、僕にお年玉をせびるのは止めて欲しい。

このままでは、僕はいつかお正月破産する。

 

ま、破産しそうになるほどにお年玉をあげられる環境にあるのは、多分幸せなことなんだと思うのだけれどもね。

 

今年が、僕にとっても皆さんにとっても良い年でありますように。